不便の効用、便利の罪過

不便だから文化が生まれる
 SNSの爆発でネットワークは拡大して業界は潤うが、コミュニケーションそのものは発展したのだろうか。遠くの者、多くの者と同時に情報が行き交う。赤ん坊の写真が即時に、母親のコメントとともに地球の裏側に住む祖父母に送られ、反応も即座に返ってくる。そのやり取りを見て友人親戚は「いいね」を押す。「いいね」だけが繋がりなのだ。
 しかし、こんな日常に批判も少数派も生まれない。なぜなら皆が見ている前で、やれるのは迎合と追従だけであり、批判や疑問は口にしにくいのだ。
 
  「一生のおわるまで私は『ああ、ああ』とためいきをはきつづけねはならぬ。/  私の心をあなたにつたえさえすれば、あなたは知らんふりをするようなことはないと私は知っている。/  しかし私の心があなたにつうじるまでに、私は灰となってしまうであろう

 これはインド人が
愛唱される古典詩。文学作品であれば、作者にとって詩が広く知られることは喜びであるに違いない。しかし、個人の個人に対する思いである場合、誰にも知られてはならない。これは心が通じないことの苦しみを綴っている。心が通じないのは、宗教のせいかもしれない、カーストのせいかもしれない、国籍のせいかもしれない。悶々としていること自体知られてはならない。心だけの問題なら「私の心をあなたにつたえさえすれば、あなたは知らんふりをするようなことはない」。悶々として悩んでいることが、批判を含んでいるのであり迫害の理由にされてしまう。
 だからこの歌は、究極の私信でなければならない。自分の中で自分だけに宛てられる。そして豊かに成熟するのである。SNSで一気に拡散すれば成熟することはない。同時に賞賛ではなく、迫害が押し寄せてくる。

  コミュニケーションはmediaの高度化によって発展してきただろうか。直接足を運んで遠方の友人を訪ねた時代に比べて、即時に双方向で大量の情報を交換できる今、我々の付き合い方は「高度」化しただろうか。
 渭城朝雨浥輕塵
 客舍青青柳色新
 勸君更盡一杯酒
 西出陽關無故人


  王維の時代、最も早いmediaはのろしだろうか。西域の都護府に向かう友人と長安で別離の宴を持ったが、名残は尽きず杯を重ねているうちに遂に渭城にまで足を伸ばしてしまう。こんな時代に、偶に西域からやってくる使者に託した手紙が、数千キロの距離と十数年の時間を超えて届く喜びと驚きはいかほどのものだっただろう。
 休暇中にも、勤務を終えて恋人との食事中にも、温泉につかっている時にも、携帯で仕事の連絡が入る。これは便利なのか親切なのか、悪魔の仕業ではないか。

 企業や政府による仕事のmailを、勤務時間外は禁ずる自制心を持たなければならない。フランス政府は、勤務時間外のmail を企業や公的機関に禁ずる処置を執っている。我が国は、企業の利益と個人の便利を重視して、自制を後ろ向きに抑圧するに違いない。
 喧嘩別れした恋人や親友との電話やmailは、努めて我慢する必要がある。そうでなければ、双方に反省が生まれるはずがない。時間をかければ大抵のことは、自然に反省する能力を人類は備えている。反省を欠いた対話は、憎しみの連鎖を生む。手紙しか方法がなければ、紙の選択にも迷い、単語や言い回しに気を遣いながら自身との対話を繰り返さざるをえない。手紙が完成しても封筒に入れ封をするまでポストに入れるまで、何度も自省を繰り返す。この時間が人格や文化を形成するのだと思う。時間を節約してはならない。


記 ある日の午後、
高く笑い声をあげながら携帯通話する自転車の少年とすれ違った。話に神経が取られて、注意が道路に向いていない。悪い予感がした。間もなく激しい衝突音とともに血のにおいが立ちこめてきた。慌てて振り返ると、少年は大通りでトラックの下に倒れていた。サイレントともに多くの緊急車両が駆けつけたが、即死だった。便利さに勝てず不用意に通話すれば、相手は自転車や車を運転中かもしれない。携帯通話による注意散漫で一体何人が死ぬのだろうか。自動車による交通事故死者は、世界で年間100万人。この毎年つくられる膨大な死者に、自動車会社は永久に責任を問われねばならない。便利で楽しい道具は、命も友情も破壊する。日本政府は、携帯による事故や発達障害を関連会社に命じていない。

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