和解する教室(再)Ⅰ   臨時HRの50分

 興味深い出来事はいつも突然姿を見せる。だからいい授業やHRの記録は少ないのだ。大抵は過ぎた後に気付く。予め記録したり公開しようとすれば、不自然な演出や演技が生まれ嘘になる。後日、生徒たちに確認しながら思い出したのが、以下の記録である。入試では毎年定員割れの心配をする住宅地の都立高校。その晩秋の社会科教室。

 一年生の臨時HR、司会はない。女子が六人、黒板と教卓を背にみんなと向かい合って始まった。僕は始まりにも終わりにも発言もせず、窓際の後ろで傍観した。


 「・・・私たち、みんなにいっぱい迷惑かけました。クラスの雰囲気も壊しちゃいました。・・・私たち自己中だった。ごめんなさい、謝ります。・・・お願いがあります。私たちのいけない点をここで言って欲しいんです」 
 双方とも緊張してなかなか言葉が出ない、固い。関係が疎遠になっていたのがよくわかる。
 「・・・陰でコソコソ音われるのって、いやなんです。言ってください」最初の発言者を待ってクラス中が固唾をのむ。
 「通路に勝手に私物を置くのはやめてほしい。ジャマなんだ」口火を切ったのは小柄で紳士的K君だった。・・・
 「陰でコソコソ言うなって言ったけどさ、君達だって僕のこと、コソコソ言ってるじゃないか」間を置いてS君・・・
 「遠足のときのわがままは許せないよ。みんなの前で一度も謝ってないぞ」

 (一学期の遠足はクラス別だった、1-6は築地と浅草を散策した。築地で六人は市場見学後の集合時に、「いまから食事する」と携帯で友達に連絡を入れて、30分も遅れた。集合場所のバスは既にいない。六人は地下鉄で次の集合地へ急ぎ、うな垂れ小さくなっていた。)

 男子の批判が続く。
 「化粧がくさい」
 「昼休みのラジカセうるさい」
 「ドアを開けたら自分で閉めろ」 
 「教室はみんなのものだ、君たちはわがまますぎる」
 「P君に謝れ、言っちゃいけない事があるんだぞ」予想を超えて発言がつついた。批判が次々とあふれ出て、六人は青ざめた。
 「そんなこと、私たちだけの責任じゃない」と六人組の一人が吐くように言うのを「それを言ったらおしまいよ」と押し止める小さな声も聞こえた。
             
 「僕も六人に嫌われて、いろいろ言われて、教室にいるのが苦しくなったんだ。休み時間には、授業が始まって先生が来るまで外に出ていたりした。・・・でもさ、悪いのは六人だけじゃないよ。僕にも反省しなきゃいけないことがある。彼女たちだけ責めるのは間適ってるよ」
 N君は授業やテスト勉強でも頼られて、一学期は六人からも人気だった。その彼も二学期には六人に露骨に嫌われた。優しかった彼女たちの視線であればこそ耐え難かったに違いない。チャイムが鳴っても廊下でうろうろする彼を何度も見かけた。
 「私、みんなの前でしゃべるのとっても苦手で、とろくて笑われるんじゃないかって心配なんです」 ひとこと一言をかみしめるように胸に手を当ててCさんが立ち上がったとき、僕はびっくりした。
 「でも今日は喋ろうと決心して学校に来ました。文化祭では無視されて辛い思いもしました。でも、聞いてください。あのー、六人がやってたことを私も楽しんでたんです。みんなも同じじゃないかな。六人だけが悪いわけじゃない。私も反省しなきゃ」


 (Cさんは、文化祭で長時間かけて工夫した飾り付けを、六人に取りはずされ、精神的に失調し呼吸を乱し、病院に運ばれ以後しばらく登校できなくなったことがある。)


 Cさんの発言でわかるが、この日のこの時間が臨時HRになるだろうとの予想はクラスに既にあった。臨時HRは皆の期待でもあった。発言の風向きが変わったが、発言は途切れない。

 「J子(六人の一人)たちの気持ち、よく分かるの。P君にきついこと言ったことも。私もね、いじめられたことあるから分かる。がんばって欲しいからこそ、そういう言葉が出るんだよね。悪気なんかないのよ」
 「でも、私が一番悪い。言っちゃいけないこと言ったんだから、謝ります。許してもらえないかもしれないけど」

 (P君は九月転校生である、表情が気になって始業式を待たず面接した。
 「・・・いじめられるかもしれなくて・・・」 非道く脅えていた。
 「小学校でも中学校でも何度もいじめられ、自分を責めました。他人は誰も信じられない」小さな声で呟いた。クラスの連中は察して、P君をクラブや遊びや弁当に誘った。しかし、P君はそれにも戸惑う。特に女子に挨拶されたりすると、体がこわばる。それを見て、回りもどうしていいかわからず狼狽え、接触に二の足を踏む。言っちやいけない言葉「男のくせに、はっきりしないんだったら死んじゃえば」はこうした状況で投げつけられた。)

 P君はHRの成り行きを教室の端っこで聞き、青ざめ、汗をびっしょりかいていた。
 「外に出るかい」と聞くと、小さいがしっかりした声で「いいえ、ここにいます」という。

 「私も、六人が音楽かけてたのを楽しんでたよ、いいじゃない、教室が明るくなって。それから、授業中うるさいのは六人だけじゃないでしょ」こう言ったのは、誰に対しても、ハッキリしたものいいのSさん。校内で平和運動の署名活動して、禁じようとする校長と堂々と論戦もした。

 (入学間もないころ、クラスの生徒たちは「1-6の男子はいいよね」、「女子がかわいくて、面白い」などと、互いを気に入っていた。しかし、知らない者同士が40人も集まって、すぐにうち解けるのはどこかに無理がある。 夏休みがあけ、文化際の準備がすすむにつれて、「うちの男子って、サイデー」、「可愛くねー」、「△□君サイテー」、「○◇さんたちは許せない」と言いはじめた。中でも評価の落差が大きかったのはY君とN君。サイテーと扱き下ろされて教室に居づらくなっていた。) そのY君が笑みをたたえながら、ゆっくりとこう言った。

 「僕はねえ、たしかにいろいろあって、やっぱりいけないことだったと思う。だから、みんなから批判されてるんだ。でもね、僕は前の六人ともみんな好きだよ。これからもいっしょにやっていこうよ」六人を見ると。たちまち目の周りが赤くなって潤んでいるのがわかった。
 「あのさーなんて言うのかなァー、そうなんだよね、やっぱりさー」とみんなを笑わせながら、秋のHRを締めくくったのも、サイテーの類のH君だった。 絶好のタイミングでチャイムが鳴り、忽ち六人の周りには人垣ができた。
 「ありがとう」
 「とってもすてきだった」 
 「かっこいいよ」
 「テレビドラマみたいなことって、本当にあるんだね」・・・

 これが「1-6の50分」である。授業開始のチャイムに促されて教室に戻る六人の一人が「先生、ありがとう」と振り向きながら言った。それまでの50分間、僕はまるで忘れられていたことに気付いた。   続く
                      この投稿は、一度操作を間違え消去したため再び構成した。

草の根インテリゲンチァ

自力か他力かではない、存在そのもの
 「たとえば田畑の植物は、旱には枯れ、雨降ればそだつなり。これは人力によりて植えたるゆえなり。路辺に生いたる春草は、土より自然に生じて人力によらず。かかるがゆえに大地のうるおいのゆえに旱にも枯るることなし
      『説法詞料鈔』
  これは浄土真宗の僧が、自力本願を戒めるために使ったたとえである。人工的に植えられた栽培植物や花壇の花は、少しの旱で枯れてしまうが、自然に生えた道端の野草は、旱にも耐えることが出来る。
 多くの果実や美しい花のために改良を重ね、田んぼや花壇に植えられた植物は、根が浅く弱い。野生の草や木は、根が長く逞しい。岩の上にに芽を出せば、水を求めて何処までも根を伸ばす。植物にとって「いい」状態とは、人のために多くの穂を実らせ美しい花を見せることではない。枯れない逞しさを持って存在・繁殖することである。


  「授業」が目指すのは何か。雇い手としての企業に多くの利益をもたらす青年を育てることか。国家のために美しく死ぬことを美徳と思わせるためか。金メダルで組織を有頂天にすることでも、他国を蔑視して優越感に浸ることでもない。自分自身と家族と仲間の生存のために、Cool head, but warm heart ←クリック を持つことである。ために被る不利益苦難=旱に甘んじる逞しさを持つこと。
そのためには、先ず教師が道端や荒野の草になる覚悟を持つ。それが草の根インテリゲンチァの存在意義だろう。

Cool head, but warm heart

最新鋭のペリカンベイ刑務所には矯正はない
 スーパーの安売りの日には、雨だろうが寒かろうがビックリするほどの客が押し寄せる。特に足腰の弱った老人が増える。議員や高級官僚には、バス電車通勤を義務づけ、こうした生活者の日常光景を目に焼き付けさせる必要がある。公僕としての義務である。
一円、1gの違いに右往左往する年寄りの姿に、彼らの全生涯を思い描く想像力を掻き立てる必要がある。早朝の駅には、指定された職場に向かう年老いた派遣労働者が、沈んだ表情で始発電車を待っている。農学部に農村調査が欠かせないように、経済学には民衆の生活調査が欠かせない筈だ。
 「経済学者は、cool head, but warm heart を持たねばならない」と言ったのはAlfred Marshall。彼は貧民街での見聞により貧民救済を決意、数学から経済学に専攻を変えている。だから彼の経済学は、賃金を上げ労働条件を緩和することを目指し、現実から乖離した理論は「単なる暇つぶし」に過ぎない述べる彼の学風は多くから慕われた。

 かつて資本は、増えつづける労働者を懸命に吸収しようとした。しかし、現在の資本は、失業者数減少のニュースに対して神経質な反応を見せ、逆に、雇用者をレイオフしたり仕事数をカットする企業に対して株式取引という全権大使を通じて報酬を与えている。このような状況下では、監禁は職業訓練学校でもなければ、生産力のある労働人口を増やすための強制的な方法でもない。現在は、正常で好ましい「自発的な」方法をもってしても、著しく無気力で手におえない「正業のない人々」を産業の回路に導き入れることはできないし、きわめて不快で嫌悪感をもよおすような仕事に就かせることもできない。現在のような状況下にあって、監禁はむしろ雇用とは別の選択である。つまり、監禁とは、生産者として必要とされておらず、「取り戻すべき」どんな仕事も持たない一群の人々を、整理し、無力化し、人目に触れない場所に排除するための一つの方法なのである。
 ・・・今日推奨されている戦略とは、近代産業の上昇期に労働者たちに教え込んだ労働倫理を(「学ばせる」ではなく)忘れさせることなのである。・・・現在と未来の雇用者が、フルタイムの常勤、勤務時間、終身雇用、長年の同僚づきあいといった身に染みついた習慣を忘れてしまうこと。どんな仕事にも慣れたり、親しんだりしないこと。そして何より、いかなる仕事にも職業的使命感を持つことを慎み(禁じ)、働く権利や責任といったことを病的に妄想する(想定することはもちろん)のをやめること。

 IMFと世界銀行の管理者たちは、1997年9月に香港で開催された年次会議で、失業者を減らそうと努力するドイツとフランスの政策を厳しく批判した。そのような努力は「労働市場の融通性」とは相容れないと。
 ・・・必要とされているのは、・・・世界金融の管理者たちの考えに従えば、労働者は、固く身についた献身的労働を忘れなくてはならないし、身に染みついた職場に対する感情的愛着や個人的な関与も捨てさらねばならない。
 この文脈のなかでは、ペリカンベイ刑務所を収容作業施設のハイテク版としてその連続性のなかで捉える考えは、まったく説得力がない。・・・ペリカンベイ刑務所のコンクリート壁の内部では、いかなる生産的な労働もなされていないのだ。そこにはいかなる職業訓練もなく、そのような活動を行う場所すらない。実際、ペリカンベイ刑務所は何かを学ぶ場所ではない。収容者たちは純粋に形式的な規律さえ学ばない。
ジグムント・バウマン「法と秩序の社会的効用」

  「生産者として必要とされておらず、「取り戻すべき」どんな仕事も持たない一群の人々を、整理し、無力化し、人目に触れない場所に排除するための一つの方法が」犯罪大国米国のハイテク刑務所である。人々が従順な日本では、監獄なしに貧しい人々を無力化して整理・隔離出来る。その典型的光景を、大都市郊外の低家賃公営住宅団地と特売日のスーパーに押し寄せる年寄りたちに見ることが出来る。権利もそれを要求する方法も知らず、自ら社会の片隅に沈み込んでしまうからだ。その予備軍としての少年たちに求められるのは「労働倫理を忘れ、フルタイムの常勤、勤務時間、終身雇用、長年の同僚づきあいといった習慣を知らずに居ること。どんな仕事にも慣れたり、親しんだりしないこと。そして何より、いかなる仕事にも職業的使命感を持つことを慎み、働く権利や責任といったことを病的に妄想するのをやめること」である。それを我々社会科教師も、いつの間にか善意で担っている。間違っても労働基本権に興味を持たないように、70年かけて社会科は解体縮小、労働や福祉分野は徹底的に削られてしまった。教師自身も権利を主張しないよう、多忙化は限界にまで達して無力化は成功裏に進行中。


 特売日のスーパーは最良の社会調査の現場だ。わざわざ案内付きのフィルドワークに出かける必要はない。
Alfred Marshallを貧民救済に向かわせた光景は、我々の身近にある。
 
  現在、世界の全受刑者の4分の1にあたる220万人は米国の刑務所に収監されている。ペリカンベイ刑務所はカリフォルニア州にある最先端理論により運営される刑務所である。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...