自力か他力かではない、存在そのもの |
『説法詞料鈔』
これは浄土真宗の僧が、自力本願を戒めるために使ったたとえである。人工的に植えられた栽培植物や花壇の花は、少しの旱で枯れてしまうが、自然に生えた道端の野草は、旱にも耐えることが出来る。
多くの果実や美しい花のために改良を重ね、田んぼや花壇に植えられた植物は、根が浅く弱い。野生の草や木は、根が長く逞しい。岩の上にに芽を出せば、水を求めて何処までも根を伸ばす。植物にとって「いい」状態とは、人のために多くの穂を実らせ美しい花を見せることではない。枯れない逞しさを持って存在・繁殖することである。
「授業」が目指すのは何か。雇い手としての企業に多くの利益をもたらす青年を育てることか。国家のために美しく死ぬことを美徳と思わせるためか。金メダルで組織を有頂天にすることでも、他国を蔑視して優越感に浸ることでもない。自分自身と家族と仲間の生存のために、Cool head, but warm heart ←クリック を持つことである。ために被る不利益苦難=旱に甘んじる逞しさを持つこと。そのためには、先ず教師が道端や荒野の草になる覚悟を持つ。それが草の根インテリゲンチァの存在意義だろう。
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