「一般に夫婦は似た顔の人が多い」との分析報告がある。ひとは顔が似ていると親密になりやすく、趣味や考え方が似ていると一緒に生活しやすいのか。
転校して親しくなると同じ家紋の家だったことを後日知り妙な気がしたものだ。
僕は生まれ故郷から夜行列車で丸一日の熊本で小学校に入った。不思議な新設校で、一年生ばかりが200人余りの4クラス、だが教室は全学年分完成していた。その中の一人がなぜか気になり、休み時間毎に「遊ぼう」と誘わずにおれなかった。彼はいつも寂しげで温和かった。中庭で五寸釘や独楽を使って遊んだがたった10分でお終い。だから放課後はいつまでも遊べると考えていたのだ
が、時鐘と同時に布製のランドセルを背負い「園のおばさんが、学校の子と遊んじゃいかんって・・・」と呟きながら、数人の仲間と裏門を抜けて帰るのだった。 僕は校門脇の土手に登って、熊本市の真ん中を横切る白川の向こう側の丘の麓に消える彼らを眺めていた。
彼らは児童養護施設から通っていたのだ。5月連休明けに白川向こうの丘への遠足があり、「遠足は一日中遊べるね」と僕はご機嫌だったが遠足当日は雨。彼らは一人も登校しなかった。先生たちは体育館に僕らを集めてお菓子を配った。親が金を出し合っておやつのために共同購入した品物だった。お菓子と弁当ですっかり元気になったうえ、勉強もなしになった。
後日、この養護施設が熊本の教育を混乱の激流に巻き込んだ『黒髪小事件』と深い関わりを持っていたことを僕は知った。黒髪小事件は 龍田寮事件とも竜田寮児童通学拒否事件とも呼ばれる。
癩療養所に絶滅隔離された患者は、感染していない子の処遇に泣いた。療養所には患者でないから入れず、親戚縁者は患者の子どもだからと引き取らない。当時患者の子どもを「未感染児」と呼び患者の家族はいつかは発病するという無知偏見を植え付け、また子どもを荷物扱いし「携帯児」とも呼んだ。様々な経緯から菊池恵楓園では「未感染児」は、癩予防協会付属養護施設の保育所「龍田寮」で扱われることになり、寮は恵楓園から離れた熊本市内の黒髪町に設置された。
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少し長いが拙著から引用する。
1954年の春、時代の歯車が逆転したかと思わせる事件が熊本で起きた。竜田寮児童通学拒否事件である。ハンセン病療養所にはハンセン病患者である子ども、親が患者だが本人はハンセン病ではない子ども、療養所職員の子どもがいて、それぞれ困難を抱えていた。熊本市内の竜田寮では、菊池恵楓園入所者の子どもたちが生活。他の療養所では入所者の子どもの地元小中学校通学がすでに実現、しかも竜田寮の中学生と高校生はとうに地元の学校に通っていたのである。意図して煽られた騒動の気配がある。中心人物は保守の県議会議員でもあった。
菊池恵楓園に再収容されることになった父親が、子どもを預けるために竜田寮を訪ねたことを書いている。黒髪小事件の3年前のことである。
「私は意外なことを耳にした。(竜田寮には)小学児童が15名ほどいるが、市内の小学校に通われず、分教場で教わっているということだった。
「小学校がすぐそこにあるのになぜ通学されないのですか?」
「それがですね、病人の子だからという理由でPTAが 反対するらしいんです。これまで何回となく市や学校と交渉しましたが、父兄側の鼻いきが荒いのでね」
親を病人に持つがゆえに、その子は正規の教育を受けることを拒まれ、やむなく分教場で一人の教師が一年から六年までを担当しているというのである。ほんの目と鼻の先で片方は堂々たる鉄筋建の校舎で、正常の教育を授けられているのに、一方では粗末な分校で寺子屋式の貧弱な教えを受けている。私の脳裡を対照的な二つの授業風景がかすめた。教育都市をもって名を知られる熊本市が、これは一体どうしたことだろう。」 下河辺諌「別れ道」『ハンセン病文学全集第四巻 記録・随筆』346ページ
竜田寮の子どもたちを排除しようとする通学反対派は、140日にわたって子どもたち(1600余)を休校させ、お寺や銭湯などで自習させた。この事件に衝撃を受けた佐賀の患者家族が自殺するという悲劇も起きている。
しかし少数派の通学賛成者は、石を投げられ、脅迫状を送られ、殴り込まれ負傷者まで出しながらも、その275名の子どもたちが竜田寮の4人と通学を続けた。新しい希望であった。反対派指導者の孫が「竜田寮の児童が入った新一年生の学級に掃除に行かせて欲しいと申し出てきたのが嬉しかった」と、『熊本市戦後教育史』は書き残している。 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊
竜田寮の中学生たちが通った市立桜山中は、黒髪小学校より竜田寮に近いが、通学拒否はおきていない。それ故事件のの解決に熊本市は悩み、市内の学者たちに知恵を借りた。その結果、何カ所かに分散設置された施設の一つが「気になる温和しい子」がいた園かも知れない。僕の入学した小学校は彼らの受け入れ学校として急遽指定された可能性がある。子どもたちの個人情報は勿論園職員の情報まで悉く秘密にされ、後に破棄されたと聞く。
この事件の根本は、絶対隔離の必要の無い癩病=ハンセン病を「ペスト並みの恐ろしい病気」と根拠のない偏見を煽りながら全国を遊説した光田健輔と渋沢栄一に帰すべきことを、僕は何度でも書く。
父の母が戸籍から消え癩療養所に生きていた可能性については既に書いたが、このトメ婆さんとほぼ同時に戸籍から消えた父の妹も同じ療養所にいた可能性を否定できない。彼女は僕の叔母にあたるが、彼女に「携帯児」はない。しかし当時の恵楓園では療養所内で患者が堕胎を免れ出産した例がある。
彼が僕の叔母の子、つまり僕の従兄弟であった可能性も否定出来ない。入学式後の集合写真を見ると、疲れ切った表情の僕の前列にそれと思しき詰め襟姿の少年が写っている。
僕は墓という風習に何の感慨も持たない。だが菊池恵楓園の納骨堂には頭を垂れるつもりだ。 なぜなら、この黒髪小事件に関する教組や労組の積極的取り組みの形跡がないからだ。癩病の絶滅隔離そのものへの怒りを込めた行動や声明すら発見できない。戦後民主主義とは何であったのか、どこを向いていたのか問わずにおれない。矛盾の結節点への洞察が欠けている。
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