多摩の大規模校にいた時生徒から、ある教師によるセクハラの訴えを聞いた。周りの生徒にもその教師の様子を聞いた。管理職に話を回しはしなかった、管理職ほどあてにならないものはないからだ。生指もあてにできない。しかし訴えは深刻だった。ひとけのない時間に、彼を訪ねて直接話した。彼は狼狽したが否定、数日して数人の教師を伴った彼に呼び出され。「とんでもない言いがかりだ、生徒が教えて欲しいて言うから近寄って手を取り指導した。何故あなたは生徒の訴えばかりを聞くんだ。管理職に訴える」と息まいた。つまり僕が件の教師の仕草に寛容になり、「生徒の思い過ごし」を指導すべきと言うわけであった。
瞬く間にこのことは学校中に知られ、僕は「浮いた」。「嫌がる生徒が間違っている」と勘違いしているのは教師の側ではないか。嫌が生徒の気持ちになってみる「寛容性」を教師が持つべきとの主張は受け入れられなかった。反対に僕の生徒に対する「毅然たる姿勢」のなさが問題視されてしまった。1990年代に入ったばかりだった。
立場の弱い生徒が、あらゆる点で「力」を誇示する教師に忖度する事が常識になりつつあった。神戸高塚高校校門圧殺事件の起こった年だ。
被害者が、寛容や我慢を強いられる。虐めにも同じ構造がある。「いじめられる側にも問題がある」と問題がすり替えられるのだ。職場や地域の「ハラスメント」は江戸の昔からそう扱われ続けてきた。セクハラを嫌がれば「可愛くない」と罵る。暴力沙汰を繰り返すチンピラは、若さ故の「やんちゃ」だったと笑う。 人の後ろに回って「カンチョー」を連発する「大物」芸人は怯えた眼差しで隠れるのだった。それが「お笑い」だとマスメディアも囃し立て、真似る者が続出する始末。
ありったけの理不尽に苦しめられてきたハンセン病者に何の咎があったか。ありはしない、神や仏までもが「業(前世の悪行の報い)」病と突き放したのだから。「ペスト並みの恐い病気」と全国を遊説して回り絶対隔離を画策した渋沢栄一が男爵になり相棒の光田健輔は文化勲章をぶら下げる構図の狂気に我々は未だに「寛容」だ。
だから首相は金メダルチーム『東洋の魔女』監督“鬼の大松”を持ち上げる。鬼の得意は『シゴキ』=壮絶なパワハラだった。しかし世間は「金メダル」に目が眩んだ。『ド根性』が流行語となり、体罰やサービス残業など日本型組織体質が戦中の地獄から甦った。『極限状態に立たされることで、人間は真の力を発揮できるようになる』と強調した大松は帝国陸軍の生き残り。その悍ましい風潮克服の半ばというのに、『シゴキ』を賛美する首相の無知無神経。そういう男を引きずり下ろす怒りを我々は持てないでいる。怒りが組織化されないからだ。
怒りは組織されねばならぬ |
我々に必要なのは、弱く虐げられる側に立ち、虐げる側への怒りを挙げること。
弱き者が弱き者同士組織をつくらねばならぬ、それは弱きものが自らの「弱さ」の根源を知る事から始まる。それ故若者には、哲学・歴史・経済学が不可欠なのだ。わが国で全ての若者に、「哲学・歴史・経済学」が普通教育として行き渡ったことはない。ただ戦後混乱の1947年、新制高校のカリキュラムがあっただけ、瞬く間に幻のごとく消えた。新制高校への進学率が50%を越えるは1954年のことである。
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