福井地方裁判所の建築が目指したもの  なぜ生指部長は生徒が選ぶべきなのか

 

 日本占領軍の勧告にもとづいて企画され、甲府そのほかの地方裁判所の新築が着手されたが、それらのうちの福井地方

福井地裁を、新聞は映画館のような
ぜいたくと書き立てた。
裁判所が模範的に完成したとき、日本の新聞などの世論は必ずしもその意義を理解せず、映画館のような裁判所だとか、ぜいたくな設備だとかの批判もあったので、ぼくは参議院の法務委員会の委員として新築された福井地方裁判所に派遣され、その新しい民主主義的な人権尊重の裁判所の建築が期待された効果をあげているかどうかの実情を報告することとなった。

 民主主義の裁判所の人権尊重の明るい新建築の模範としての福井地方裁判所は、敗戦までの日本の威圧的な、冷酷な、暗い建築が天皇制国家権力に対する人民の服従を強制していた裁判所とはまったく対照的に、いかにも民主主義国家の個人尊重の希望を体現していた。その大法廷の床は明るい色の、やさしく人をむかえるじゅうたんでしきつめられ、被告や傍聴人の座席は高扱映画館なみ。家事審判、家事調停の部屋も、壁には絵、テーブルには花瓶、とホテルのようだ。

 これまでどんなところで家事の審判や調停をしていたか、というと、バラックのガタガタいう板の間にガラスのつい立てをおいて、向こうでも、こちらでもはなしをしていた。向こうのはなしのほうがおもしろいと、こちらのはなしはやめて、聞いている。とてもおちついて調停なんてできるものではない。それがホテルの部屋のように、油絵の額がかかり、花がかざってあり、やわらかいじゅうたんに楽ないす。これはぜいたくか、と現地で調査すると、家事調停は、これまでとちがってほとんどすべて成立するようになったという。新しい、明るい、じゅうたんをしきつめた美しい法廷になってから、一回も紛争がない、本当に模範的だ、と裁判官もうれしそうに語っている。

 最後に、被告が拘置所から裁判所に連れてこられて開廷を待つあいだの控え室を見たい、と要望したぼくが案内されたその部屋には、ベッドがあり、セントラル・ヒーティングの暖房の装置もついている。これはたしかにこれまでの国家権力主義では考えられなかった百八十度の民主主義の改革、人権の尊重だ・・・

 ぼくの恐れていたとおりに、その部屋のドアの下の地面に接するところに穴があいているのだ。これが急所である。最後のところで民主主義をうらぎるのだ。被告の食事弁当を差し入れる入れ口がドアの地面に接するところについている。これは敗戦までの日本の天皇制国家権力主義の人権無視のあらわれであり、警察でも、拘置所でも、刑務所でも、被告や収容されている人の食事をわざと泥土におく卑劣な差別の伝統だ。    羽仁五郎『教育の論理』講談社文庫


    多摩の文字通り平均的な高校にいたとき、ある担任から生徒の「指導」を頼まれたことがある。その教師が担任するクラスのの生徒に、こともあろうに僕が「説教」する。弱った、東京で最もそれに相応しくない人間が僕だ。

 暑い日だった。僕は「何処でやってもいいか、話す中身に制限は付けないか」と念を押して、冷たい飲み物を用意してもらった。

  水辺の鬱蒼とした静かな木陰まで歩いた、担任も一緒。腰を下すと、玉川上水のせせらぎと小鳥のさえずりが聞こえる。  

 「ここを知っているかい」

 「知らない、初めて来た。涼しいね」と怪訝な顔をする。 

 太宰治はここで自殺を図り、四回目で死んだ。太宰はこう書いる。

「生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。」

 「実は何を話そうか、困ってるんだ。きみには言いたいことが一杯ある筈だ。先ずそれを聞こう」

  小柄な少年だった。僕にはこの生徒の何が「指導」に値するのか見当もつかない、聞けば反抗的で教科担任達が手を焼いているらしく、クラスでは浮いている。

  「その自殺した作家の話をしてよ」と少年。担任も頷いている。小一時間やり取りしながら話すうちに飲み物は無くなった。・・・

 「指導じゃなかったな」と言いながら戻った。

 半月が過ぎた午後、件の少年がやってきた。

 「先生、また指導してください」 

 「この前のやつは指導じゃないよ、困ったな。・・・よし今度は君が話すんだ」

  こうして水辺の木陰で何度か話をせがまれる羽目になった。相変わらず彼は聞くだけ。やがて文化祭・体育祭も過ぎ、少年は来なくなった。担任の報告では、クラスに復帰した。彼は僕の説教ではなく、あの木陰が気に入ったのだ。 

福井地裁正面玄関のステンドグラス
 学校の中に緑や文化に囲まれた落ち着く場所はない、隠れる場所もない。福井地裁が目指した環境は、主権者が誰であるのかを国民の皮膚感覚を通して啓蒙するものであった。国家の主人公に仕える僕(しもべ)=servantとは、公僕=public servant であることを誰の目にも明らかにするものであった。(その明示された意図をとらえきれなかった新聞は、新聞の役割が権力の批判であることに未だ目覚めていなかった)地方裁判所に続いて刑務所、少年院、学校・・・公営住宅が続く筈であったが・・・行政はGHQの撤退・朝鮮戦争によって真逆を目指した。

 だから学校の生活指導部は、少年/少女の権利を守り啓蒙する役割から大きく外れてしまったのである。「生活指導」が、懲罰的な成績や体罰に苦しむ高校生の訴えに基づいて行動する「分掌」となり、その責任者の最終的任命権は生徒に委ねられる可能性を秘めていた。児戯にも及ばぬ「模擬」投票のごときが、主権者教育と呼ばれることの不毛性に高校生は怒りを爆発させてよい。

 埃まみれの使い古し教材が雑然と置かれた陽当たりも景色も最悪の部屋で、主権者である少年/少女が威圧的「取り調べ」を受け反省を迫られ監禁される場所が今なお学校にある。羽仁議員が福井地裁で目撃した光景とは似ても似つかぬ世界が「日本国憲法」下で70年も続いたことに僕らは血の涙を流す必要がある。 

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