現役校長、行政を批判

  大阪市長松井一郎に現役の校長が「大阪市教育行政への提言」と題する文書を実名で送付した。本文を引用。

 豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために 

 子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。

 学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。

 今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。

 現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。

 また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。

 つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。


 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚しく、わたしたちの教育への情熱を萎えさせるものか、想像していただきたい。

 子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。

 あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。

 間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。

 「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。

 コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。

 根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。

令和3(2021)年5月17日

大阪市立木川南小学校 校長 久保 敬

 

  対し松井市長は「考え方が違う」と切り捨て、考えの中身には触れない。

 「校長だけど現場が分かってない。社会人として外に出たことはあるんかな」などと批判。教職員が意見を述べることについては

 「意見を言うことは問題ないが、大きな方針は組織として決定事項。決定事項の設計図に伴った職務を遂行してもらうのは当然。それを否定するなら、公務員としての職責を逸脱している」と主張。

 「ルールから逸脱するような形で、教育振興基本計画と違う形で学校運営するとあればルール違反。辞めてもらわな」と処分を匂わせた上に、

 「決めたことをやらないというなら処分の対象。考え方は違うけど、教育振興基本計画に沿って学校運営するのが当然の話。社会人として当然じゃないの?組織の決まったことを覆そうと言うのなら、自ら公約掲げて市長にならないと変えれませんよ」と維新お得意の論法を相変わらず振り回している。政治的少数派であろうが、多数派同様「主権者」であることを、了解しない。松井市長は自らが「civil servant」であることを学ぶ必要がある。

  相対多数を取った者が総取りするのが、彼らの「民主主義」観。政治が博打と同列になっている限り、多様性は在りえない。コスタリカの政治的多様性や生態系の多様性が、少数者や弱者を排除しない「抑制」の上に成り立つている。

 68年大学闘争の最中、大学構内で突然右派学生に取り囲まれたことがある。彼らはこう言った「お前、そんなに日本やアメリカがいやなら、ソ連に行け。」

 僕はこう言った。「君たちが日本人なら僕も日本人だ。僕の立場は「日本国憲法」が保証している。」彼らは余計いきりたった。

 ベトナム情勢が悪化したこのころ、僕はほとんど毎日教室を回り反戦ビラをまきアジテーションを繰り返していた。

 維新の論法はこの頃既にあった。いやなら黙れ、従えないなら辞めろ、出て行け・・・。

 教育の中身については、行政は口出しが出来ない。条件整備だけが任務、それが欧米の「公選制」教育委員会制度である。大阪でも東京でも日本中で、行政が教育の中身に介入している。そのことが憲法違反であるのに、なら憲法を変えろと議員が言う。議員の任務は憲法を擁護する事に尽きる。

 中身のない多数派は、少数弱者の悪口や蔑視感情を煽り立てる事でしか存在を主張できない。


 政治に口を閉ざしていた大阪の市民は、「 #木川南小学校長を支持します」のタグを瞬く間にsns上に溢れさせ始めている。だが周辺の校長たちは口を閉ざし続けている。小学生は口を閉ざす校長たちを「かっこ悪い」と思うだろう。絶好の「道徳」教育になっている。勿論教室で取り上げればだ。

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