言葉は平明に、門外漢や年寄りを分からない言葉で分断排除してはならない。

 アラート /  コンプライアンス  /  ステークホルダー    /    ダイバーシティ   /    エビデンス / アジェンダ /  ペンディング  /   フェーズ /  インクルーシブ  ・・・・  と横文字で武装しさも最先端専門家気取りが流行るのは何故か。

 服や車や化粧品の色までレッドやパープルそしてネイビーなどと表示して売る。この国には豊かな色彩感覚があった筈、粋な名称が使われてきた。それは殆ど無限と言ってもよい程だ。我々は豊かな色彩感覚とそれを表現する能力を無くしたのだろうか。英語風がかっこよくインテリ風でクールならば「一般大衆」が使う言葉はダサイことになる。誰にも分かるという言葉の平等性を破壊して、横文字に精通する自己の優位性が嬉しいのか。

 こうして単語が際限なく増殖するたびに、古びた言葉が無秩序に積み上がる。

 それがモノなら厄介極まる「ゴミ屋敷」や廃棄物の山として人々の意識を刺激して、否応なく解決策を模索することになる。はじめは「ゴミ屋敷」主人の心理や行動を好奇の眼差しで眺めたり鼻をつまんで揶揄する。怒りと暴力が拡がる時期もある。だがやがて全ての人の尊厳を回復するコミューン=共同体の創成に至る長い過程が否応なく模索される。

 1872年東京府知事が発令した「違式註違条例」というものがある。この条例は刺青、男女混浴、春画、裸体、女相撲、立小便、肩脱ぎ、股をあらわにすること、街角の肥桶などを、軽犯罪として細々と禁止した。「廃刀令」「断髪令」等と文明開化を焦る明治政府は文明のかたちに煩かった。 不平等条約を受け入れてしまった日本の支配層は欧米キリスト教徒の、日本のあれがこれが文明的でない野蛮であるとの視線に極度に神経過敏になった。

 幕末の江戸では若い女性が路地で行水を使っていた。それほど治安が良かったのであり、裸は美しいものであっても猥褻なものではなかった。それはむしろ誇るべきことである。しかし若い女性の行水に、英国婦人が野蛮と眉をしかめれば忽ち裸禁止令を出した。盆踊りや裸足が槍玉に挙がった所さえある。

 「恥ずべきでないことを恥じる、そのことが恥」なのだ。他人の尺度でしかものを考えない卑屈さは、「文明国」にない筈のものに対する傲慢過酷な眼差しを生んだ。 通りすがりにたまたま目に入った現象を非難する「文明人」の一瞬の嫌悪の感情は、所詮深い考察を伴うものではない。例えそこに注目すべき視点があったとしても、我々は我々の社会の実態を踏まえて、判断をしなければならない。肥桶が臭いと言えば、それは安全で良質な肥料であり、数百年わたって百万都市の衛生を担って成功していたことを説けば良い。それが矜持というものである。矜持を捨てて何が「文明」か。

      『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)    から

 明治日本が手本にした大英帝国のキリスト教的「倫理」観は、世界的普遍性からは大きく隔たっていた。その独善極まる植民地主義は、未だに悍ましき大規模殺戮と差別の源となっている。「通りすがりにたまたま彼らの目に入った現象を非難する一瞬の嫌悪の感情」は特殊な「私事」にすぎない。彼らの内輪の掟に過ぎないことを、自国の民衆に強制する過ちを文明化と呼んだ。

 違質な価値観を持つ国同士が出会うとき、対話で何が可能なのかを探りながら学び合うことが外交に他ならない。学び会うことで互いの世界観を豊かに拡大出来る。しかし強大国に忖度すれば、歪みを生む。それが太平洋戦争を引き起こし、原爆投下に至った。 


 「文明国」にはない筈のものとして槍玉に上がった一つが、浮浪「癩」者だった。少し学べば、浮浪癩の実態は貧困であることに気付く。文字通りの文明国であれば、貧困の放置こそ恥ずべきであった。病気は不運なものであっても恥ずべきものではない。


  違式(いしき)は「御法度に背く」、註違(かいい)は「心得違い」と意味をとらせている。ことさら難しい漢語を使って恐れ入らせようとの官僚の魂胆が見える。おかげで各種の解説・手引き・図解の類いか数多売れた。馬鹿馬鹿しい話だ。


 共同体の可能性は、社会に対する深い洞察と長い忍耐から生まれる。「違式註違条例」の如き「その場しのぎ」は僅かに残っていたコミューン=共同体の欠片さえも破壊してしまった。

 政治屋も官僚も企業も大衆もそして文化の担い手までも、横文字に執着する。何を怖れて執着するのか、世間に同化出来ない自分に追い詰められてか。中身がない、中心がない、数値化されて「傾向」だけが加速する。


 アラートって何?・・・とマゴマゴしている間にが土石流が襲い、原発が爆発しかねない。皆が知っている言葉を探せ。アラートは、警報・コンプライアンスは、法令遵守・ ステークホルダーは、利害関係者・・ダイバーシティは、多様性や多様化・ペンディングは、保留で十分じゃないか。横文字に馴染みのない門外漢や老人にも容易く通じる。広く正確に通じてこそ言葉である。それが言語の美しさの基本。コミューン=共同体は、言葉や生活の共同性を基本にしている。


   学校に蔓延する「部活が命」の傾向に怯える教師達も、よき授業・綿密に準備した授業を待ち望む青年達が待ち受けていることに盲目だ。 部活は私事にすぎない、授業こそ公事であり良き授業は生徒の権利であり教師の義務だ。


  校舎に入賞した部活や名門校合格者数の垂れ幕を並べることが学校の誉れか、一見全体の立場から発するかに聞こえる軽薄な掛け声に流される-それが安逸のファシズムの始まりだ。異議を唱える者を事前に排除して完成する、心地よい全体主義体制。

 公の性格を持たせた「部活」は今や全国を覆い「官僚制」化し暴走、公教育を駆逐している。政府や自治体が担う公=おおやけの仕事が利潤の最大化を目的とする企業に任される。 今や日本では、雇用者全体の僅か1/17が公務員。 これはOECD諸国では最低率。教育にも医療にも福祉にも、公=おおやけは大きく後退して「私」益が前面にでる。それは選挙によるコントロールが効かなくなることを意味する。 


 記 異文化との出会いで大きな貢献をなした日本人もある。中浜万次郎、大黒屋光太夫、南方熊楠、阿倍仲麻呂、杉原千畝。 個人としての日本人は可能性を秘めているかにみえる。しかしこれは日本人だけの特性では無い、英国人も中国人も米国人もそしてあらゆる民族が個人として異文化と接したとき、双方に大きな足跡を残している。 

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