「出来」ても0点をとることの主体性 Ⅱ

偏差値は物語を作れない
 彼らが平然と0点をとったのは、自らを記号として扱うシステム=偏差値出現への拒絶ではなかったか。偏差値の教育への応用は始まったばかりであった。偏差値という外から持ち込まれた無生物が絶対性を帯びる事への違和感は、少年にも親たちにも強くあった。
 学級は家族とともに個々人の成長誌である。映画『二十四の瞳』は美しい映像でそれを見せている。それは文化であり、そこに優劣はない。文化は数値や文字から生まれるわけではないからである。
 我々はそのことを無文字社会から学んだのではないか。ただ嫌悪すべき遅れた社会として知っただけだったのか。だとすれば嫌悪すべきは、効率に囚われた我々自身である。

 偏差値に部活を加えて「文武両道」と名付ければ、あたかも全人格的な成長物語が出現したような錯覚=神話が生まれる。(封建官僚制の中で使われた言葉を濫用する薄っぺらさが、偏差値を招いたとも言える)
 部活的「文武両道」神話における「文」からは、理性が排除されている。「武」にはアマチュアスポーツの自主・平等・公平の精神が欠けている。それはまさしく組織や君主のために、命を鴻毛のごとく軽んじて「己を空しゅう」することに他ならない。つまり「死ぬこと」としての武士道が、「文武両道」神話には生きている。だから組織のために「私情」を抑える事を、親も教師も世間も讃えてしまう。そこには、語る主体としての少年/少女はない。

 学ぶことは生きることと同義でなければならない、結果としての数値で知れるものではない。過程としての物語を核にしている、それは親にとって子の体重や身長の記録が、成長の誌ではあり得ないのと同じである。
 学校が偏差値と「文武両道」神話を拠り所とする限り、学校自体が大量消費の海に溺れてしまうだろう。溺れても藁を掴んではならない。

  「ユーモレスク」に耳を傾ければ、A君たちと過ごした日々が鮮やかに蘇る。音楽の時間に聴いた覚えがある。滑稽で気紛れな気質は教室の笑いを誘い、それでいて悲しく寂しげな表情は
「ユーモレスク」の雰囲気に似ていると思うのだ
 「なぁ、オレの成績とお前の成績をたして2で割れば丁度「3」じゃないか。」周囲が爆笑するなか、Aくんは
 「オレがいるからお前がいて、お前がいるからオレがあるんだ、だよな。だから俺たちは親友だ。」と続けて僕の同意を促した。この時彼は、偏差値と相対評価の理不尽を正確に見抜き、それを僕に伝えていたのだと思う。
 「偏差値に囚われるなよ」と教師は誰も教えなかった。その仕組みの確からしさを言っただけだ。卒業が迫ったある日
 「たわし、俺たちのこと忘れないでくれよなぁ。・・・あぁ・・・お前やっぱり俺たちのこと忘れちゃうだろうな」とべそをかきそうになったのは、効率や偏差値が社会全体を覆い尽す事態に何ら反撃出来ない悲しみであり、親友が偏差値の彼方に吸い込まれる事への警告でもあった。

 
A君の懸念通り偏差値に溺れそうになったのは、進学した僕だった。息をすることも周りを見渡すことも苦しかった。「皇帝」や「ユーモレスク」でA君たちを思い浮かべて気休めした。
 高校が軒並み荒廃の頂点に達した時も、「管理主義」や「毅然たる指導」の言説に惑わされずにすんだのは、彼らの思い出のおかげである。二中を取り巻く歓楽街の子どもたちの荒廃や大学紛争時の青年の
閉塞極まる状況に比べれば、どんなに荒れた教室も僕には「花園」に見えた。

 A君が「頑張れ」ばクラスの平均点は上がるが、別の誰かが「1」を頂戴する羽目になる。

 悦ちゃん←クリック unlearn仕切れない生徒←クリック自分が頑張ってしまえば誰かが「ビリ」になることに、鋭い嫌悪感を持っていたのだと思える、際限のない競争に皆が疲弊することを回避したかったのだこれこそが理性である。
 彼らは抑制の効かない社会に対する孤独なドンキホーテだろうか。ソローではないか。 




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