To every Japanese ・ Gandhi / 紛争を煽る日本への戒め

GANDHI SEVAGRAM ASHRAMから
 「・・・あなた方を敵視しているわけではありませんが、私はあなた方の中国に対する攻撃を激しく憎悪しています。あなた方は立派な高みから帝国の野望へと落ちてしまったのです。あなた方がその野望を実現することはできないでしょうし、あるいはアジアを分断した張本人となるかもしれません。
・・・私は、南アフリカからインドに帰国してから・・・日本人僧侶たちと親しく交流するようになりました。・・・その精進ぶり、堂々たる忍耐力、日々の礼拝への不屈の献身、愛想の良さ、種々の状況にも動じぬ姿、平和な内面を明瞭に物語る自然な微笑み、これらのために私ども皆から慕われたのです。・・・
 あなた方はその隣人の古典文芸を自らのものとしてきたではありませんか。互いの歴史、文化、および文学についてあなた方が持つ理解、それはあなた方を現在そうであるような敵同士ではなく、友人として結びつけるべきものなのです。
・・・私どもは帝国主義に抵抗せねばならぬ独自の立場にいます。私どもはあなた方の野望やナチズムに負けず劣らず帝国主義を嫌悪しています。私どもの抵抗は英国の人々を傷つけようとするものではありません。彼らを変えたいのです。私どもは丸腰で英国の支配に抗っています。・・・
 無慈悲な戦争には最終的な勝者がいない、ということが何故あなた方にはわからないのか不思議でなりません。・・・私が読んだものは全て、あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞くのだと語っています。それらの文章が全て誤っており、私があなた方の琴線に正しく触れられたらいいのにとどんなに祈っていることか! 何はともあれ、私には、人間たるもの必ずや応えてくれるだろうという不滅の信条があります。迫り来るインドでの運動を着想したのはこの信条がもたらす力に支えられてのことであり、あなた方にこの請願をしようと思い立ったのも、この信条に基づくものなのです。 あなたがたの友 ガンディーより」1942年7月26日    日本語訳の全文はここ←クリック
    Gandhiによる原文はここに←クリック

 ガンジーがこれを書いた年の情勢は、どうであったか。 


1942/03   Gandhi 「英国人がインドにいることが、日本のインド侵略を招く。 彼らが撤退すれば日本を引きつけるえさはなくなる」と述べ、英国の即刻撤退を強く要求。
1942/06/05 ミッドウェイ海戦。日本海軍は主力空母4隻、搭載全機263機を失うが、大本営はミッドウェイで日本海軍は敵の施設に大打撃を与えたと発表。
1942/12/31 ガダルカナル撤退(ガダルカナル戦は、日本守備隊への補給がろくに行われず、将兵は悲惨な餓死を遂げたことから餓島と呼ばれた)

 ガンジーも第一次大戦では、まんまと英国に引っ掛けられた。将来の独立を匂わせ、英国は大戦参加をもちかけたのである。ガンジーはこれに応じ、120万のインド兵と物資を投入した。
 にもかかわらず約束は反故。大英帝国はローラット法(1919年対インド法。令状なしの逮捕・裁判抜きの投獄権限をインド総督に与えたとアムリットサル大虐殺(英軍ダイヤー将軍指揮下のグルカ兵に非武装群衆への発砲を命じ、広場の出入り口に配置した機関銃で「弾がなくなるまで」撃ち続けた。死者1200名、負傷3600名。大量虐殺の首謀者ダイヤー将軍には、2万ポンド(現在の日本円で数億円)の寄付が集まった)を以てインドを力と法で弾圧した。
 第一次大戦にこと寄せて、同様の提案を英国は孫文に伝えたが、彼は見事にその意図を見破り論破している。←クリック   

 英国はドイツ植民地の奪取を目論み、インドの兵力と物資を騙し取ったのである。ガンジーは高い買い物をした。 (英国は、同時に中東を巡ってはアラブ人とユダヤ人を同時にペテンにかけ、現在に至る世界の混乱を招来させている。日本も日英同盟と英国の要請を口実に自ら大戦に参戦、中国や太平洋におけるドイツ権益を略取して図に乗った。)

 「私が読んだものは全て、あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞くのだと語っています」は些かも的外れではなかった。既にその剣は、自国民と敗走する自国兵にさえ向けられていたのである。皇軍中枢は、自らの特権を拡大、八紘一宇と言いながらアジアに国内に帝国主義的支配・弾圧の網を巡らせたのである。
 

 これは過去のことではない、2019年現在の日本の問題でもある。大戦に敗北した途端、米国の戦争体制に70年以上も嬉々として加担、それで日本は何を得たと言えるのか。

 「あなた方には請願を聞く耳がなく・・・」これは教委言うところの、教育困難校生徒たちの呟きでもある。あなたとは行政であり学校であり世間である。
 「教育困難校」とは何か。在校生を教育することの困難性を言うのか、確かなのは行政や学校が在校生の教育を放棄して「教育困難」にしていることである。本質は、特権階層の形成過程が被差別階層形成過程と一体という仕組みにある。青年を階層分離・隔離して、「教育困難」層から知識と自治を遮断、従順な態度だけを植え付けてきた。
 大英帝国が、ことある毎にインド人に自治は無理だと言い続けてきたことを思い起こしたい。

 「教育困難高」KH校一年生二人が、
授業中ベランダに寝そべっていたことがある。聞けば 
 「授業中に話してたら「殺すぞ」って言われて、ショックで・・・」と言う。普段の二人は授業中教室がうるさくなると、
 「静かにしなさいよ」とたしなめる側であった。であれば彼女たちが喋っていたら、何でお喋りしていたか聞かねばならない、それが教育の前提である。授業の中身そのもので煩くなることは大いにあるのだから。それが嫌なら教員免許は返上せねばなるまい。
 「指導重点校」を検索にかけると、進学指導重点校や進路指導重点校ばかりが出てくる。たった一つ、生徒指導重点校に関するものが出てくる。
ここ←クリック         
 暗澹たる気持ちになる。こんな取り組みをしていたら、教師は学習に集中できない。教頭を増員して生活指導は校長と教頭に任せる必要がある、教員は授業に専念する。それだけで、生徒たちとの対話的関係は形成される。教委は、校長と教頭の煩雑な事務を免除する体制をつくる。学校設備はSSH並に(東京では筑駒が指定されている、実験教育が貴種作りならsshは廃止しなければならない)。良い設備を、高い偏差値の特権にしてはならない。

 あおり運転を繰り返し「殺すぞ」と凄んだ自称経営者が捕まった。彼は貴種であるとの妄想に取り憑かれていたのか、その「優雅な」生活振りをSNSで「下々」に披露したが誰も敬意を払わない。彼にとって外車によるあおり運転は、高圧的に「下々」の服従を迫る手口である。彼は、外車に乗る「対話不能」者になっていた。
 何がそうさせたか、それは裁判の過程で明らかにしなければならない。彼のなかで善悪は、どう判断されたのか。正常な自由意志だったのか薬や病気で判断困難な状態だったのか。後者だとすれば責任は社会が負わねばならない。
 しかし彼は根っからの小心者だったと見える、覚醒剤がきれ外車が奪われた途端萎んでしまった。まるで戦前戦中の皇軍の如き振る舞いである。

 首相経験者が1979年衆議院選挙に初出馬演説で、開口一番支援者に対して「下々の皆さん」と発言した事実はよく知られている。そればかりではない、1983年の高知県議選の応援演説では「婦人に参政権を与えたのが最大の失敗」と言い放ち、その後も老人や病人に「死ね」と言わんばかりの発言を繰り返している。にもかかわらず当選し続けて、「ナチスに学べ」と人々の恐怖を煽る。彼も「対話困難」者或いは「対話不能」者である。彼は自分自身が憲法99条に拘束されていることにさえ留意しない。
 国家機関とマスメディアが結託、自らの犯罪行為は棚に上げたまま近隣諸国に向かい、退け、黙れ、無礼者、などの暴言を放っている。

 そればかりか、自らの傲慢な姿に酔う有様。まさに煽り運転中毒である。米国制武器片手に過去の亡霊を目覚めさせ、「聖戦」の旗に見惚れている。
 Gandhiの「あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞く」は、今や現政権とこの社会にも向けられている。

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