親は子どもを選べない、教師の生徒選抜はいいのか

 アイデンティティというのは、われわれが自分を他人に理解してもらうようにするということでもあります。一緒に生きている仲間が、隣人が、われわれを理解してくれているかどうか、それはどのようにしてであるか、ということであります。つまり、われわれが、他の諸民族と一緒に生きていけるかどうかということを問う問いであります              (ヴァイツゼッカー、1988年)
 人は努力して学歴と資格を根拠にすれば「なりたい自分」になれるのだろうか。他者からの承認なしに。自分は自分では見えない.
 瀬戸内寂聴が「聖職」とは何かについて面白いことを言っている。

 「明治以後の廃仏毀釈で、・・・がお坊さんに結婚することを認めたのですね。それでみんなおおっぴらに結婚していますが、ほんとうの仏教では、戒律のいちばん厳しいものは、人殺しよりも嘘つくことよりもやはり姦淫をすることじゃないですか。だから、何かひとつ守らないと・・・。
 たとえば、「聖職」という言葉がありますね、清らかな職。だけど、いま聖職者が全部だめでしょう。教師が聖職でしたね、その教師がだめでしょう、それから坊さんがだめでしょう、それから医者がだめでしょぅ、それがなぜかということがいちばん大事なことじゃないかと思うのです。その聖職者というのは人のできないことをしているから一般の人は尊ぶわけでしょう。ところが、いまその三つの人たちは普通の人と同じことをしていますものね、だから尊べなくなったんでしょう。
 坊さんなんて、セックスという人間の最も強い普遍的な本能を断っているから、「ほぉ、できないことをあの人はするんだな、偉いなあ」と思うじゃないですか、いちばんの根本のところは。それが普通にみんなと同じにしていたら、どこに変わりがあるんですか」                   『仏教と倫理』岩波書店
 
 ある僧が、僧自身について「欲はなくさねばならないが、そのことに拘ってもならない」と言ったとき、僕は心底がっかりした。その言葉は、僧が救いを求める人に言うものであっても、自らに向けて言うものではない。僧の「アイデンティティというのは、・・・自分自身を他人に理解してもら」うものである。何かを求めて僧の前にいる人は、僧の後ろに仏を見ているのである。
 教師は、学ぶことと教える事にひたすら傾注して、権力との対決も辞さず個人的成功を遮断しているから、「なかなか出来ないな、偉いな」と思われるのではないか。
 教師の言葉と生き方に学ぶ喜びや真実を見たいと思い、若者は教室に足を運ぶ。その底には、多少なりとも「偉いな」が必要だと思う。
 僧呂、教師、医師にとって求められるのは、聞くことである。聞くとは、それぞれの要求を理解することである。政府や学校の方針にあわせて、時には自分の好みや信念に合わせて個人を矯正することではない。まして成績で選抜することではない。

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