「YOUは何しに・・・」の不快に既視感

新聞は侵略の実体に蓋をした
それをまた繰り返そうとしている
 このTV番組のタイトルを知った瞬間、不快感を覚えた。ある種の既視感があった。番組の中身は予感を越えて不快であった。どこから来た既視感なのか、手当たり次第調べて、ようやく石川達三の『生きてゐる兵隊』に行き当たった。
   『生きてゐる兵隊』から何カ所か抜き書きをする。
                                                    Ⅰ

  部落をはづれた所の農家の小舎に水牛が繋いであった。それを貰って行かうといふことになって通訳は家の裏手をのぞいて見た。皺だらけの老婆がひとり竃の下で黙々と火をたいてゐた。
 「おい、婆さん」、と彼は戸口に立って言った。「俺達は日本の軍人だが、お前の所の牛が入要だ。気の毒だが貰って行くよ」老婆はきいきいと甲高い馨で反抗した。馬鹿なことをいって呉れては困る。あの牛はやつと先月買ったばかりだのにもって行かれたら私たちは百姓が出来んぢやないか。・・・
 だが、もう日が暮れかかつてゐた。暗くなるとまだ危険は多い。かまはんから持って帰らうと相談はまとまった。  ・・・「どけ」一人の兵は老婆を突きとばして水牛の手綱をとった。「じたばたすると命にかゝはるぜ」しかし彼女は唾を飛ばしてわめき叫びながらなはも抵抗した。この野郎めえ…と通訳は舌打ちして後から彼女の襟首をつかみ、力かぎりに引きたふした。彼女はひとたまりもなく道傍の泥田の中にあふ向けざまに落ちこんだ。兵たちはひどい泥のしぶきを浴びた。中橋は笑って歩き出した。
 「命ばかりは助けてやるぞ。戦争が済んだら牛も返してやるからな」牛はぼくぼくと砂塵の道を歩きはじめた。兵たちは良い気持ちであった。無限の富がこの大陸にある。そしてそれは取るがまだ。このあたりの住民たちの所有権と私有財産とは野生の果物のやうに兵除の欲するがまゝに開放されはじめたのである。
                                                    Ⅱ
 古家中尉が横から口を挟んだ。
 「さうですよ、自分らの村で金鵄を持つとるもんが五名ありますがなあ、みんな女房はしゃんやすわ! やっぱり金鵄を貰はんとあかんですわ。本当だぞ、倉田少尉」
 扉をあけて当番の兵が皿や探皿を両手に捧げて入って来た。
 「食事が出来ました。爾がこさへたんでうまいかどうか分らんですが、……」
 「さうか、爾がやったのかい。毒を入れやすまいな」
 中隊長は水筒をしまひこんで箸を取った。
 「支部料理か」
 「はあ、あひの子みたいなもんです。どうも材料がないんで、うまく行かんです」
 北島大尉は先づ汁を小皿に取って、背を丸めてすゝつて見た。
 「うむ、当番、これあうまいぞ」
 「さうですか、良かつたらまだあります」
 「うむ、爾は中々うまいことをやるなあ。支部人でも使ひ道はあるもんぢやなあ。古家中尉」
 「はあ」と彼は曖味に答へた。
 強制的に徴発されてきた支部人の軍夫たち七八人は下唇をだらりと垂らして炊事場でせらせと働いてゐた。当番の三人の兵が手まねで指図すると無口に従順に、しかも兵たちが首をかしげるほど忠実に働くのであった。すると兵はこの爾たちの同胞を澤山殺して来たことをふと釈明したい気持ちになり、おいと肩をつついて煙草を一本くれてやるのであった。
                                                    Ⅲ
 戦場といふところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまひ、同じ程度のことしか考へない、同じ要求しかもたないものにしてしまふ不思議に強力な作用をもってゐるもののやうであった。医学士の近藤一等兵がそのインテリゼソスを失ったやうに、片山玄澄もまたその宗教を失ったもののやうであった。たゞ彼に残ってゐる宗教家の名残りは、経文を知り葬式の形式を知って居るといふだけである。
                                                    Ⅳ
 ・・・この二人の商人は今日の午後市街地を歩きまはって手頃な家を探して来た。勿論支那人の家でその中には家財道具が澤山に残ってゐる。その釘づけにされた扉を開いて自分の店にしてしまふのだ。
 領事館負はこゝで一つのエピソードを語った。昨日も一人の支那人が開店したばかりの日本人を訪ねて、ここは俺の家だし家財もある。入ってくれては困ると言った。日本人はそれに答へた。何を言うか、こゝは占領地区だぞ、虹口一帯の建物一切日本軍の管理下にあるのだ、帰れ。支那人は後をふりかへりふりかへりながら悄然と立ち去って行った。


 「中央公論」(1938年3月号)に掲載された「生きてゐる兵隊」は、納品翌日、内務省警保局図書課から発売頒布禁止処分を通告されている。 編集者たちは、

 「多少予感された危険をおかしてまで、なお掲載に踏みきった私どもの心理のうちには、 奢れる戦争指導者にたいするうっ積した憤りや いわれなき戦争への私どもの不満が微妙に作用していた」という。
   石川達三自身はNHKラジオ「我が文学我が回想・社会派作家50年」(1985年11月放送)でこう語っている
 「生きている兵隊」という作品を書いて、それで、警視庁に呼ばれて、処罰を受けたんですが、あれだって、戦争を、わたしは戦場を見物に行ったわけじゃないんですね。
 その当時は、新聞でも放送でも世間の報道というものは、戦争についての報道というものは、まるで、もう、「勝った勝った」で、おめでたい話ばかり放送しておって、悪いことは何も放送しなかった。
 たとえば、タイジソウというとこは、戦争負けておったらしいけども、負けたとはなんにも言わない。日本の兵隊は神様みたいに尊敬されて・・というふうなことばかり報道しておる。
 「そんなバカな話があるものか」 
 わたしは自分で、本当の戦争を見て、本当の戦争というものを書こうと、そう思って従軍を願い出て、出かけていったんですよ。それで、帰ってきて書いたのが「生きている兵隊」という作品で、そうして、発売と同時に発売禁止をくって、わたしは捕まえられて、取り調べを受けた。だけども、わたしはなぜ処罰を受けるようなことになったかというと、本当の戦争を書いたからイケナイということなんです。その時、わたしが処罰された罪名は「新聞紙法違反」。 「安寧秩序を乱した」ということなんですナ。
 つまり、それまでは、日本の新聞やなんかがイイことばかり書いてて、悪いことはなんにも言わなかった。ところが、わたしは本当の戦争らしきものを書いた。それで、みんながビックリするじゃないかと。これが「安寧秩序を乱した」ということなんですナ。
 それで、わたしは禁固4ヶ月なんていう刑を受けたんですけども、しかし、わたしは裁判の最後まで、判決を受けてその後に至るまで、「悔悛の情」などというものは一切ないですナ。悪いことをした気がないんです。ですから処分をされても、なんともないです。自分自身はちっとも辛くない。拘留されればからだは辛いかもしれないけど、精神はなんともないですね。
・・・わたしは、あいつはバカだと言われた。しかし、わたしは書かずにはいられなかった。
 1938年がどういう年だったかを、「中央公論」編集者の証言から知ることが出来る。1985年のNHKがどんな報道姿勢を持っていたかを、石川達三インタビューは示して興味深い。これらは1940年ナチスのフランス・オランダ侵攻前の情勢とそれ以降の情勢の変化を考える際に役に立つ。

 ここでは Ⅲ の「食事が出来ました。(ニィ=你)がこさへたんでうまいかどうか分らんですが、・・・」 「さうか、がやったのかい。毒を入れやすまいな」の口調が、「YOUは何しに・・・」の口調と同質であることに注目する。『生きてゐる兵隊』には、中国人を「爾(ニィ=你)」呼ばわりする場面が幾つもある。自分の外国語舌足らずを棚に上げて、相手の言葉と態度を嘲笑・蔑視する高慢さは何処に由来しているのか。南京に入った兵隊が「避難民区域から一人の支那人の青年を連れて来」てうどんを作らせながら「「おい、、好姑娘、連れてこいよ」笠原はげらげら笑ってさういう」場面がある。八紘一宇や一視同仁が空念仏であった事が分かる。
 石川達三が同行した部隊が上陸して間もなく「爾(ニィ=你)」呼ばわりは始まっている。であればこの口調は少なくとも上海から南京にかけて展開中の日本軍では既に一般的であったと思われる。

 僕は、「YOUは何しに・・・」に、この南京侵攻部隊の醜悪な仕草と口調を感じる。日本兵が学校で聞かされた「八紘一宇」や「一視同仁」を上陸とともに忽ち忘れたように、番組「YOUは何しに・・・」は、グローバル化やおもてなしのスローガンを視聴率と忖度の底に押し込んで、訪日外国人を見下しながら「いじる」のである。ここには、「外国人の憧れる先進文明ニッポン」という妄想に乗った惨めな傲慢がある。

  『生きてゐる兵隊』では戦争という概念があちこちに使われている。Ⅰの、「命ばかりは助けてやるぞ。戦争が済んだら牛も返してやるからな」 Ⅲの、「戦場といふところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまひ、同じ程度のことしか考へない、同じ要求しかもたないものにしてしまふ不思議に強力な作用をもってゐるもののやうであった」 Ⅳの、「何を言うか、こゝは占領地区だぞ、虹口一帯の建物一切日本軍の管理下にあるのだ、帰れ。」
  1937年に始まった日華事変が、日中戦争になったのは1941年蒋介石政権が宣戦布告してからである。

 戦争だからといういい訳は通用しない。集団殺人、集団強奪、集団強姦、集団誘拐、集団放火である。 殺人、強奪、強姦、誘拐、放火などのれっきとした犯罪に、戦争という言葉は兵隊におまじないのように作用した。
 おまじないに蝕まれた精神が、中国人から個人名を奪い「爾(ニィ=你)」呼ばわりしたのである。同時に「爾(ニィ=你)」呼ばわりすることが、これは戦争であるから強奪や殺人ではないという意識を形成している。
 それは、Ⅰの「兵たちは良い気持ちであった。無限の富がこの大陸にある。そしてそれは取るがまだ。このあたりの住民たちの所有権と私有財産とは野生の果物のやうに兵除の欲するがまゝに開放されはじめたのである」という記述に現れている。
 日本軍は戦争が終わっても、牛を返さなかった。軍票の精算をしなかった。鬼畜米英を殲滅出来なかったことへの謝罪の一言すらない。他国を占拠し強奪強姦殺人を尽くしたことの後始末を、何一つやっていないのである。破廉恥はこう言う場合に使わねばならない。

 日中戦争では中国兵戦死者は少なくとも約130万人、民間人犠牲者は500万から1000万人、それはすべて日本軍の侵略に起因する。事実は誤摩化しようがない。
 敗戦後日本人は膨大な財政的負担を負った。戦中の経済的犠牲や戦後の賠償だけではない。旧軍人遺族等の恩給は1953年度から2007年度までで、約47兆円(現在の物価水準に直せば、60兆円余)に達する。他方、賠償・在外財産放棄・経済協力・戦前の債務 その他の合計は、2007年までに約1兆4千億円弱。対外賠償は全体でも、旧軍人遺族恩給費の33分の1に過ぎない。
中国は戦争賠償を放棄している。
記 「体罰」を振るう教師は、「てめえ」とか「貴様」と罵りながら少年たちを殴り足蹴にする。「×○君」や「△◇さん」と個人名を言いながらやるのは難しい。自分の行為が刑事罰を伴う犯罪に過ぎないことが明白になるからである。「てめえ」とか「貴様」という上下関係を含んだ言い回しが、暴行を「体罰」という教育もどきに変えてしまう。

 日頃から教師が生徒を、君付けで呼ぶ環境では言葉か教師の行為を規制する。生徒自治会とPTAは、教師の言葉遣いの点検をする必要がある。

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