「・・・しかしこの革命地区の文学者は、好んで、文学と革命とは大いに関係があるといっているようです、たとえば文学によって革命を宣伝し、鼓吹し、煽動し、促進し、そして革命を完成させることができるなどと。
「革命文学」などは急ぐことはないのです
しかし私はこう思うのです、そのような文章は無力であると。なぜならばすぐれた文芸作品は、もともとたいてい他人の命令を受けず、利害を顧みず、自然に心のなかから流れ出てくるものだからであります。もしあらかじめ題目をかかげて、文章をつくるのなら、それは八股文とおなじことで、文学としてなんの価値もなく、まして人を感動させることなどできるはずはありません。
革命ということのためには、「革命人」が必要なのであって、「革命文学」などは急ぐことはないのです、革命人がものを書いてこそ、はじめて革命文学なのです」 魯迅「革命時代の文学」
これは1927年黄埔軍官学校に於ける講演記録。文中の八股文とは中国の明や清の時代に科挙の答案として用いられた、特殊な文体である。
志賀直哉が小林多喜二に宛てた1931年8月7日付の手紙の「小説が主人持ちである点好みません」「主人持ちの芸術はどうしても稀薄になると思います」「運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説でその方が結果からいっても強い働きをするように私は考えます」
更に、1935年11月の対談の発言「小林多喜二はたいへん優れた作家だと思っている。また人間としても実にいい人間だったと思っている」・・・「しかし誤解してはいけないよ、主人持ちの文学でさへなければその作品がすぐに傑作だなんていふことを僕は決して言はないのだから」・・・「主人持ちの文学でも人をうつものはあるかも知れない」・・・「要は人をうつ力があるもの、人を一段高いところへ引き揚げる力がある作品であればいいのだ。さういう作品が現れてくるならば、反対にはっきり主人持ちの文学として現はれて来たからといって一向差支へあるまい」 「志賀直哉氏の文学縦横談」『文化集団』
志賀直哉は魯迅に2年遅れて生まれている。同時代の人である。国費留学生と学習院生は、神田あたりですれ違っていたかも知れない。同じ時代の空気を吸っているのだ。
先に挙げた対談の中に「今の世の中でファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね」・・・「大体この二三年間、急に日本はまるで日本でなくなったやうな気がするぢゃないか。僕は腹が立って、不愉快でたまらないんだ」・・・「世の中が実に暗い。外へ出るのも不愉快だ。言ひたいことが言へない世の中などというものは誰にとっても決して有難くないわけだ」という発言もある。
魯迅も志賀直哉も、文学に「他人の命令」を排して「自然に心のなかから流れ出てくる」もの、「人をうつ力があるもの、人を一段高いところへ引き揚げる力」を求めている。特に魯迅が軍官学校でこれを講演した年、美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発された年に「ファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね」と志賀直哉が言っていることに注目したい。魯迅は北京、厦門、広州、上海と軍閥や国民党の弾圧を受けながら果敢に文芸活動を行ったが、志賀直哉『文化集団』誌対談の翌年、急逝した。
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