五十三才の老女教師と娘に襲いかかる「勤務評定」

 公選制教育委員会が始まったのは戦後間もない1948年、それが慌ただしくも56年の地教行法(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)で首長による任命制教育委員会が強制された。その任命制教育委員会は、先ず何よりも教員に「勤務評定」で襲いかかることに専念した。

 この『暮しの手帖』への投書は、「勤務評定」が教育を如何に荒廃させたかを如実に語りかけている。

  ★母の異動

 二ヶ月ぶりに母から便りがきた。五月も終り近く教員の異動期はとっくに過ぎ、気にかかりながらも、母は新学期を迎えて元気に勤めていると決めていたのだった。しかし便りによれば母は異動組だった。しかも退職勧告を受け、はねたあげくの遠かく地異動。

 片道一時間半汽車に乗り、降りて四十分歩く里程。母は五十三才である。戦争未亡人で四人の子供を成人させ、戦後の日本をカツギ星、土方でくぐり抜けてきた。昭和二十五年、助教諭になり法政大学の通信教育、単位認定講習を七年間受けた。幼い子供をかかえて日曜もなかったこの期間は、どんなに辛かったことだろう。夜中にふとめざめて、洗濯をやっていた母をよく見かけたものだった。

 それにもかかわらず母は明かるい人だ、。ジメジメするのがきらいで私たちは安心して母によりかかっていた。しかし母は誰にもよりかからなかった。頼るは自分のみだった。

 一人娘の私が遠い地へ嫁ぐことも黙って耐えていた。子供をおいて私もまた職業をもつ身であるが、それに耐えかねるとき「子供は大きくなればわかってくれるよ」と言ったが母を支えていたものはこれだったのか……と思う。便りの末尾に「とにかく人のやれないことをやれ……という訳でがんばります」とあった。

 しかし恩給は助教諭だった七年間は年数に認められず、せめて年金を…と働きつづける母に教委は何故、こんな仕打をしたのだろう。老後の補償を自分で得ようとしてこの異動を受理した母が、させた社会が私には悲しいのである。

     松下 雅子『暮しの手帖9号』(1967)


 第一次アメリカ教育使節団(1946年)は、戦前戦中の天皇制軍国主義教育が恰も国民に狭窄衣を着せたようなものであったことを指摘し、日本の教育改革は狭窄衣から教師を解放する事でなければならないと報告書を作成した。この勧告に基づいて独立行政委員会としての公選制教委が教育委員会法によって組織された。

 地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会として公選制教育委員会は、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持った。

 しかし1951年の単独講和暴挙後、占領軍は各地に基地を置き沖縄を占領したまま撤退する。早くも1956年、公選制の廃止と任命制の導入を強制する地方教育行政法が成立している。  

 任命制教育委員会は、一貫して教育と子どもに関心を持たなかったと言って良い。彼らは教育委員会を、政治に従属させ私物利権化を図り今日に及んでいる。「勤務評定」は複雑強権化したに過ぎない。 

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