「平凡な自由」は青い鳥ではない

自由は平凡の中にしかない
 引退したはずのイブモンタンらしい男が、フランスの田舎でペタンクをしていた。的の杭目がけて、鉄の球を投げる大人の遊びである。たまたま日本のマスコミ人が現場に居合わせて、『イブモンタンさんですか』と声をかけた。男は不快そうな顔付きになり、怒ったように背中を見せて立ち去った。
 いかにも日本のマスコミらしい無神経さである。誰もがマイクを向けられれば喜ぶと思い込んでいる。肉親を事故で失った悲しみの底にある遺族にも、『お気持ちを、ご感想を』と傍若無人である。

 マスコミの男がペタンクの雰囲気に引き込まれたのならば、「去りがたい光景の中の、日本人旅行者」としての自分を書けば良い。一日中眺めて、ペタンクをやらせて貰えば上出来ではないか。
 

  イブモンタンは歌手としても俳優としても栄華を極めた。毎日がフラッシュとマイクを向けられる日々であった。希代の英雄や苦み走った二枚目を演じても、それは監督や制作者の造った虚像であり、イブモンタン自身ではない。世界の女を痺れされるような歌を歌っても、それは制作者の意図に合わせているだけで、彼自信を表現したものでは無い。彼は、引退して初めて、平凡な日常の中にしか自由はないことを知ったに違いない。
 
 嵐寛寿郎は押しも押されもしない役者で、生涯に300本の映画を撮った。何度も恋愛し結婚離婚を繰り返したが、そのたびに全財産を別れる相手に贈った。銀幕や舞台の嵐寛寿郎は、彼自身ではない。
引退後の彼は、掃除が趣味で他人任せにせず楽しんでいた。とくに拭き掃除は念入りであった。
 前の天皇の末娘が地方公務員と結婚して、下町のマンションに住んだ。商店街での買い物が好きで、買い忘れがあれば何度でも往復した。商店街の女将が「言っていただければ、お届けしますのに」と言うと「とんでもありません、こんなに楽しいこと、何度でも自分でいたします」と、おっとりした口調で答えたと言う。
 
 『平凡な自由』(大月書店)を書いたとき、タイトルが過激だ、皮肉がきついなどと揶揄された。

 我々の自由は、オリンピックを誘致したり、カジノや博覧会建設に浮かれることにはない。毎日の通勤や登校途中に、道ばたの草花にみとれる楽しみの中にある。時折出会う幼児やお年寄りの姿に安堵して挨拶を交わすことにある。勲章やメダルを首にかけたり、天皇の即位パレードに「感激して涙を流す」ことにではなく、長い病みが癒えて木々の香りと暖かい空気包まれる中にある。

 だが中村哲医師が、命を賭けたのは、砂漠化した土地に生きる人々の『平凡な自由』を実現するためであった。それ故彼は殺された。すべてが商品化された社会では、自由も平凡も敵と見なされる。

 中村哲医師がノーベル賞に挙げられなかったのは、所詮ノーベル財団が商品化社会の申し子だからである。 

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