学級が「home」roomと呼ばれるのは何故か Ⅱ

homeは保守的である
 学級の呼び方には不思議なものがある。最右翼はlong time だろう。毎日の放課前の短い学級活動をshort timeと呼ぶのに対して、週一度の一時間を使ったものをlong timeと呼ぶようになったらしい。何やら風俗産業じみた言葉である。long home roomも落ち着かない。まるで縦が100mの教室を連想させる。
 世界各国の学校でhoom roomは使われているが、中身は大いに異なっている。
 日本の高等学校指導要領には、その意義が「自己の所属する様々な集団に所属感や連帯感をもち,集団生活や社会生活の向上のために進んで力を尽くそうとする態度を養う」と記され、団体行動や協調性が全面に出ている。

 米合州国の高等学校でhoom roomらしいものは、学期に数度の連絡伝達があるだけ。従って多くの生徒が自分のhoom roomメンバーをろくに知らない。授業前後に集まり、学園祭などの行事に取り組んだり、掃除や係の仕事を行う事もない。世界的にはこちらが標準。

 この日本のhoom roomの特異性を生んだ意識が、家庭や企業に於ける個人の位置や関係を著しく異様なものにしている。個人と集団の関係が逆転している。個人を学校や企業などの組織=おおやけに隷属すると考えてしまう。自立した個人が集まり、協議しながら「公=おおやけ」は作られるとは考えられないらしい。


 明治の鹿児島で小学校に通った祖母たちは、子どもは家に属すると考えていた。それ故行事は毎月、どんなに手間をかけても家の行事としておこなった。
 子どもに何かあれば祖母や大叔母たちは、家を代表して直接かつ対等に学校と対していた。決してPTAを通しはしなかった。小学生の僕から何か問題を掴んだ時は、数軒の同級生を回って問題を確かめ、直接学校や町役場と掛け合っていた。予算が必要であれば、町議会にも足を運んだ。


 号令と行進ばかりの「合同体育」が面白くないと不平を僕が言ったときには、「そんた兵隊の訓練じゃ、勉強じゃなか。そげなもんは出んでんよか、日本はもう戦争はせんとじゃ」と怒りを込めて僕を諭し、学校に走った。

 決して主張を曲げない婆さんたちだった。子どもは学校のものではなく、まして新憲法後は国家のものもはなかった。合同体育はいつのまにかなくなった。僕だけが下校していたのかもしれない。整列や行進を止めただけだったかもしれない。組合に勢いがあった時代でもあったから、職員会議で議論になった可能性は高い。志布志には機関区があり国労も自治労と共に意気軒昂だった。
 「あょー、うんだもしたん」と声をあげながら下駄をつっかけて、学校へ走る大叔母を思い出す。 

 「home」は盗んでも咎められず、貢献を強制されない領域である。存在自体が最大の貢献であって、そこから戦場や競争に向けて出撃する基地ではない。たかがタバコや数度の遅刻で目くじらを立てる場などではない。
 学級=home roomは再定義する必要がある。言葉を知ることは意味を発見することであり、思索の始まりである。高校生は言葉から、社会の実態や本質に向かう。

 担任は、クラスや学校への貢献を生徒に求めてはならない。貢献の度合いに応じて特権を付与することを恥じねばならぬ。存在自体を貴しとすべきことに気付かねばならない。担任は自分の学級の処分件数を恥じる必要は無い。 
 

 「国家が各個人にしいている支配服従の縦の人間関係倫理にたいして、家はすくなくとも国家よりは各個人の人間性を大切にするという意味で横の人間関係の倫理の芽ばえをもっていたわけだが、これは普遍的な倫理の形にまで一般化されることがなかった。サークルは、家の中でなりたっている相互扶助をひろげて行く過程で、よこの倫理を自覚的につかむことができるようにする」鶴見俊輔

 国家が、教委が、学校が「個人に強いている支配服従の縦の人間関係」であれば、homeとしての学級と少年/少女の関係は如何にあるべきで、何をなし得るのか。学級担任としての職責は何か。
 出世や受験などの成功を夫や子どもに懇願する家庭の風潮とは一線を画する必要がある。
 進歩的な親や教師すら、部活は少年/少女の権利だと思い込んでいる。入試や就職に有利になるのであれば、それは権利ではなく特権。教育から真っ先に排除すべきは特権である。そこから初めて権利が始まる。
 順位が決まらないと落ち着かず、噛み付くことが習性になったとすれば、ただの愚かな野獣だ。

  冒頭の日本画は、鏑木清方が樋口一葉を描いたものである。僕の記憶の中の祖母は、ランプを除けば髪型・針山付きの裁縫箱・着物や前掛けまで、この絵と何一つ変わらない。最も変わらなかったのは、彼女たちの生き方だった。

 祖母も大叔母も、戦中は将校の妻として国防婦人会で竹槍訓練の先頭に立った。その愚かな苦い経験が「馬鹿の考え、休むに似たり」との口癖となった。

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