バイクと高校生と言葉と階級

無知や貧困との闘い
 下町の工高で教えていた頃、夏休みにはバイクの事故で死者や重傷者が相次いだ。教師たちには心安まる暇はなかった。高校生は原付の免許を取るや否や、夜通しで三国峠を目指していた。連続するカーブが彼らを惹き付けた。
 僕のクラスでも免許を取る者が続出した。Tくんは学校近くに住んでいたから、通学には使わない。通学に使う連中は見つかれば停学だから、実にうまく隠す。生徒部が必死になっても捜せない。Tくんの成績は一気に危険地帯に入った。夜間遠出するから遅刻も増える。説教したり脅したりでやめる連中ではない。親も息子に、バイクを取り上げるなら退学すると脅されてお手上げ。事故現場の写真を廊下に貼っても、「先生、俺たちは生の現場を見てるんだぜ」と笑う始末。

 ある初冬の寒い日、Tくんが放課後社会科職員室に来て言う。
 「ちょうどよかった、話したいことがあったんだ」
 「だと思ってた。・・・でもよ先生、おれバイク売っちゃったんだ」
 「分かってたか、何ヶ月乗ってたんだ。思い切りが早いな」
 「二ヶ月、それがさ、雨が降った夜。一回りするつもりで出たんだけどさ、店のガラスに映ってる自分に気付いたのさ。オレ顔がでかくて、ヘルメットがちょこんと乗ってる。おまけに足は短い。それが雨に濡れてゴリラにのってる。格好悪いんだよ、恥ずかしくてうちに帰った。」
 「格好いいつもりだったのか」
 「笑わないでよ」
 「格好いいのはバイクだけか、高校生向けのバイクを売る会社は最悪だと僕は思ってるよ」
 「そんでよ、ここに来たのはさ。先生が教えた『立場』という言葉を思いだしちゃった。自分が見たり思ったりすることと、他人が見たり聞いたりすることが全く違うことがあるってやつ。それが言いたくなった」

 こうして高校生は、苦い失敗を経て「言葉をみつける」。三年になれば『政治経済』で階級の概念に出会う。彼は苦さと共に新たな言葉を獲得する。その時彼は商品としてのバイクから自らを解放する。学ぶとは単語を記憶する事ではない。

 バイクと高校生を巡って、どんなに多くの教師が、一体何度会議を重ねたことか。どんなに多くのレポートが綴られ、本が書かれ番組が作られたことか。すべてが無駄とは言わないが、その思いはある。多かれ少なかれ、それらは高校生に説教や処分を与える根拠となった。
 最大の問題は、バイクの魅力を上回る授業を構想出来ない構造と能力にある。我々とは個人としての教師でもあるが、偏差値の高い学校には重点的に予算と教師を回す行政でもあり、武器と金力に優しい政府でもある。
 黒澤明の『赤ひげ』で新出去定は、貧乏と無知に喘ぐ見捨てられた病人たちにこそ良い医者が必要と言う。「底辺校」にもとびきりの教師が必要なのだ。
 岡場所で心を病んだおとよが養生所に来ても気持ちがすさみ、保本登の差し出す茶碗を払いのけ割る場面がある。保本登は怒りもせず「かわいそうにな」と涙を流す。これが「底辺校」に必要な光景ではないか。匙に注いだ薬湯をおとよが撥ね除けても撥ね除けても、優しい顔して顔に着いた薬を拭いながら匙をおとよの口に運び続ける赤ひげの「強さ」が教師に求められる。毅然たる処分や体罰ではなく。
 御目見得医や金持ちの太鼓持ち医者並の教師が、管理職試験技術ばかりを肥大させて学会や研究会に巣くっている。
 SSH作りには夢中になるのに、その対極の高校生たちには説教と処分と体罰以外の手間をかけない仕組みを呪う。

 僕はおとよと長坊の20年後を思う。貧困と無知にどう立ち向かうのか。
 長坊もおとよも、保本や新出がいなければ札付きの非行少年/少女で終わった。

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