日本では犬にシャツを着せる。これは世界で殆ど日本だけの奇妙な光景。
文部省唱歌『雪』の二番は
雪やこんこ あられやこんこ / 降っても降っても まだ降りやまぬ / 犬は喜び 庭かけまわり / 猫はこたつで丸くなる
何故だ、汗腺のない犬にシャツを着せたがる。犬は肉球と舌だけで汗をかく。シャツはたとえ冬でも不要。南極の冬にもtaroと
jiroは耐えた。反対に猫は寒がりだ。
犬をワンコと呼び、雌猫を女の子と言い可愛がるが、実態は「虐待」。犬や猫にも尊厳がある。猫には「猫」格が、犬には「犬」格がある。「猫」も「犬」も生物として独立対等であって、「ヒトもどき」や「名誉ヒト」では無い。
かって三井物産は社内報「三井海外ニュース」で「ここ数年来、南アと日本との貿易は飛躍的に伸長し、それに伴い名誉白人は実質的白人になりつつある。最近は、多くの日本人が緑の芝生のある広々とした郊外の家に白人と親しみながら、そして日本人の地位が南ア白人一般の中において急速に向上していることはまことに喜ばしく、我々駐在日本人としても、この信頼にこたえるようさらに着実な歩みを続けたい。インド人は煮ても焼いても食えないこうかつさがあり、中国人はひっそり固まって住み、カラードは粗暴無知、黒人に至ってははしにも棒にもかからない済度しがたい蒙昧の徒という印象が強い」と名誉白人扱いを誇った。おかげで日本は1980年代後半から南アフリカ共和国の最大の貿易相手国となった。儲かりさえすればという日本の姿勢は、1988年の国連総会採択の「南アフリカ制裁決議案」名指しで非難されている。
日本人が猫にシャツを着せないのは、毛が柔らかいから直接撫でたいのだ。飼い主が気持ちがいい。対して犬の毛はゴワゴワで、心地よくはない。
儲かりさえすれば、自分さえ好ければの思い込みは激しい。自分が善と思い込めば、他者の尊厳は目にも耳にも入らない。広い城跡に住む男を「現人神」と思い込めば、全体が思い込むまで強制し続ける。常に多数は全体。少数は無になるまで拷問を加えられる。
日本に初めて二匹のパンダ・カンカンとランランがやって来たのは1972年。上野動物園では、国賓級のパンダを一目見
ようと大勢が押しかけたが、その生態は分からないことだらけ。餌も受け付けず、公開の目途もも立てられない。 困り果てた飼育担当者は、ヒトとパンダの壁を乗り越えるように、山形弁で夜も昼も語りかけるが、カンカンは衰弱し命の危機に直面。その間も人々は毎日行列をつくって待ち続け、黒柳徹子も撮影の日程を切り詰めて毎日外で並んだ。 苦心の末漢方薬を飲み笹も食べるようになった一週間目、飼育員が「おめえさ会いてえヒトが・・・」と声をかけて黒柳徹子が顔を出した途端、カンカンは仕切りのガラス際の彼女にすり寄ったのだ。飼育員が「お前、メスのランランに少しぐらい・・・」と言うほどの嬉しがりよう。彼女には不思議な能力がある。パンダの独立したパンダ「格」をとっさに承認。パンダの警戒心を解除、対等な関係を結ぶ。それはパンダに限らない、全ての動物、全ての民族、すべてのヒトの尊厳を感じ取る希有な能力に恵まれている。だから「徹子の部屋」はギネス級の長寿番組となった。
「すべてのヒトの尊厳を感じ取る希有な能力」が最も期待されるのは、教師。若者一人一人の人格を、学校や教師からは独立した尊厳ある存在としてとらえる事が要請される。
僕だったら黒柳徹子を文部科学大臣兼教師に任命したい。彼女には小学校を1年で退学処分された輝かしい経歴がある。枠にはまらない点で彼女の右に出るひとはない。世の不良・悪童・非行・はみ出し者、そして彼らの悩める親たちに向かい合い語りあえるのは、彼女のみ。
これには素晴らしい前例がある。ギリシア映画『日曜はダメよ』の主演女優 メリナ・メルクーリ。彼女はギリシャに軍事政権が誕生すると直ちに反政府運動に加わり、全ギリシャ社会主義運動のアンドレアス・パパンドレウ内閣が成立すると文化大臣を務めた。(映画『日曜はダメよ』の物語自体と主演女優メリナ・メルクーリの役柄そのものが、彼女が何故ギリシアの文化大臣に相応しいかを示している。)
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