「指導する」関係の不毛性

 

 2001年 10月21日

   三年生のIさんが、「この三年間で最も印象に残ったこと」について書いている。

 「数学が全く苦手だった私と、英語が苦手な友達とで、試験前一週間毎日、互いに教えあって、二人とも信じられない点を取ったこと」。

 

 教員は生徒に教えることで賢くなるだろうか。恐らく後退しているのではないか。

 では友情ある生徒たちの間にあるのは何か。     


  

 ゴッホとゴーギャン カストロとゲバラ 寺田寅彦と夏目漱石・・・

 「指導する」関係がはらむ不毛性と、友情がはらむもの違いがそこにある。学校用語の「指導」の語感は、行政用語の「指導」に限りなく似て相手に対する敬意はない。

 ある生徒の不満「だってさ、△▽の教師が授業中喋るな、質問もするな、失礼だっていうんだ。」がそれを端的に示している。△▽の教師にとって、教えるとは「共に未来を語ること」ではない。機械的な勤務時間が経過することでしかない。


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