個人の尊厳と自治体規模

  ハンセン病療養所多磨全生園で、子ども舎の寮父を永く務めた三木さんが、興味深い話を残している。
  「お酒が好きでしょっ中喧嘩する人がいましてね、それがテニスなんかを通して子どもと知り合った。すると人間的に全く変わったということがありましたね。子どもとペアーを組んで優勝したりね。そんなことでその人がパーッとかわって・・・どっちかと言うと鼻つまみになりかねない人だった。競輪競馬もやる人でね。それが子どもに○○さん、○○さんと呼ばれて、いままで、飲み友達、競輪友達しかいなかったのに、「子どもの友だちができた。変なことはできないなあ」と自分で漏らしていたいたそうですよ。周りの人も生まれ変わったみたいだと言っていました。その人は、自分が孤立していると思っていたのに子どもが自然に慕っていったからでしょうね」 樋渡直哉著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』      
 社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方・人間のあり方を変える。
 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とし、様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。三木寮父の話で言えば、お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。
 人口が増加すれば、こうした判断は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を失い、雑多な厄介者の一人として一括処理される。彼らが鼻つまみという孤立状態から共同体へ回帰するためには、多数への追従・同化という手続きのみが残り、同化できなければ罰と排除が待っている。 鼻つまみの全生活の複雑性の理解と把握は、顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。
  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。
 千人程度の「奇妙な国」=ハンセン病療養所で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」(療養所入所者たちは、療養所外の世界を「社会」と呼んだ)では、企業も自治体も学校さえもが合併を繰り返して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応ささせられ、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
 少年の信頼と承認が、鼻つまみを心優しい「善人」に変えてゆく。これは小さな社会であっても、毛涯(毛涯は、療養所職員で患者たちの風紀を取り締まり、理不尽な罰を加え、患者たちから恐れられた。彼の加えた罰によって死亡した者もある)が居てはありえない。何故なら療養所のあるべき人間像は、上から暴力的に与えられ、酔っぱらいの博奕打ちは監房に放り込まれ、テニスは患者のくせにとムチ打ちの対象になったからである。
 ハンセン病の子どもたちの学校・全生学園自治も、療養所の人口規模を抜きには考えられない。 「塾」や茶会という文化的学びの形態もまた、何時でも歩いて行けるという集団の大きさが関わっている。

  日本の「市制及町村制」が発足した1888年には、7万0314の市町村があった。しかし直ちに明治の大合併が実施され、市町村数は1/5になる。その後もひたすら、行政の効率化が図られ、敗戦を経て地方自治法が成立した年には、10,505の自治体が残っていたに過ぎない。それでも町村合併は繰り返されたのである。その結果自治体数は激減し、現在1718に過ぎない。フランスは3万8000、ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。
 ドイツ憲法第一条と日本国憲法第十三条の違いは、ここにある。ひとり一人の尊厳が、全ての行政機構で尊重されるためには、基礎自治体の規模は小さくなければならない。 ヨーロッパでは、小学校の規模は、校長が全児童の名前を覚えることが出来る大きさに制限されている。父母が校長に会えば、校長は父母の個人名から生徒の成績や生活に至るまで即答しなければならない。それが出来なければ、罷免の対象になる。
 我々日本社会の自殺の多さ、絶えざるいじめ、社会的弱者への不寛容、ヘイトスピーチの執拗さは、ここに根を探る必要がある。鼻つまみの酔っ払いさえ、生まれ変われる「生きやすさ」に満ちた自治体は、ひとの普遍的な権利なのである。
 

 荒れた生活を続けていた高校生に、夕闇迫る校庭ですれ違った教師が「○○君今晩は」と声をかけたことがある。荒れていた筈の生徒は、件の教師が教室に入ると同時にノートを広げ鉛筆を握って待ち構えるようになった。都心の、廊下で花火が発射されていた学校での話である。似た話は無数にある。
 
 学校も会社も国も小さい方がいい。オリンピックで金メダル
幾つも取るなんてどうでもいいことだ。
   富山県船橋村は人口3000人、面積は3.47kmと日本一狭い。1990年には、人口も僅か1371人に過ぎなかった。どんなに住みやすいか、村立図書館長高野良子さんの言葉がいい。
 「新しい親子連れが図書館に来たら、必ず声をかけて、お子さんのお名前を聞いています。・・・今日も若いママが2組、初めて赤ちゃんを連れて来てくさったので、お名前を聞きました。・・・名前で呼んであげると、親御さんは『うちの子の名前を覚えていてくれた』と喜んでくださる  https://www.huffingtonpost.jp/2016/01/04/funahashi-vill_n_8909360.html    
  名前で呼んで貰えた子どもは、もっと嬉しいはず。住み易いから人口は増えている。子どもの割合は日本一である。

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