政治的権利は大人だけのものではない |
TVのバラエティ番組は、笑いの内容や質ではなく「形式」を変えて、不快な高笑いを煽っている。
バラエティ番組では、無闇に大勢のお笑いタレントが雛壇に並んでいる。低質な番組をコメントで盛り上げる役割を担わされているが、タレント自身にtalentが無いから雛壇に並ぶ数は膨れ上がる一方。気の利いた知的コメントは出来ないから、目立つために言葉以外で優位を保とうとする。椅子から落ちたり、パワハラめいた内輪ネタを叫んだりする。その一つが、場を制する馬鹿笑いである。内容や質によって笑いをとるのでは無く、高笑いという形式で番組を制しているのだ。TVそのものが、質の高い対話や笑いを提供する力や見識を失い、その代わりに笑いの形式を変えてしまったのである。高笑い以外に芸が無いから、レストランでも対話のない高笑いが続く。
ディレクターは政権に忖度する広告代理店に首を掴まれ出来るのは視聴率を高めるという絶望だけなのだ。怒れ高校生!笑い方までTVに指図されるな。笑いの中身を君たちが作れ。君たちを支配するものを笑いのめせ。
朝日新聞大阪版に、元特攻志願兵の投書があった。引用する。
特攻志願「お前たち馬鹿だ」無職 加藤敦美(京都府 88)
世論調査では、18~29歳の自民党支持や改憲への賛成が他世代に比べて異様に多い。兵隊にされ、戦場に送られる世代ほど、そうしようとしている勢力を支持している。寒気がする。
私自身、16歳で特攻死しか待っていない予科練(海軍飛行予科練習生)だったからだ。死ぬための志願。あれは何だったのかと今も思う。冬の夜、山口県の三田尻駅(現・防府駅)に入隊の旅を終えて、灯火管制の真っ暗闇の中、不安と緊張に凍え、皆が黙りこくって待った。突然、若々しく朗らかな声がした。「海軍なんか志願して、お前たち、馬鹿だなあ」。迎えにきた海軍の下士官だったのだ。
街という街は廃墟となり、次々と人は殺され、少年兵は゛恨み死に″した。戦場帰りの下士官は知っていたのだ。「お前たち、馬鹿だ」 馬鹿だった。無心にあどけない幼子まで、母の胸に抱かれて焼死体になった。誰が幼子を殺したのか。私たちが死ぬのは自分の勝手だ。だが小さい子たちまで道連れにする。わかっている。だから憤怒する。わざわざ自分を兵隊にする改憲をしたがるお前たち、馬鹿だなあ…。18~29歳。自分が何をしているか、わかっているのか。
ヌーの大群は、まるで集団自殺するかのように、先行する仲間がワニに襲われ次々に絶命しても川に飛び込む。 若者は己の絶滅を目差す政策を支持してしまう。何故だ。ヌーの群れも日本の若者たちも、独立した判断能力を集団に投げ出しているからである。
18歳選挙権が、若者の政治行動と高校教師の学問・教育の自由を圧迫・恫喝しながら唐突に導入され、現場は妙な雰囲気に包まれながら色めき立った。自分の模擬投票授業光景をマスコミに売り込んだり、自治体から本物の投票箱を借りたり、自ら投票結果を官庁に報告に出向くなど浮ついた行動が目立った。実態はお寒いもので、政権や保守系の議員らに忖度して投票の判断材料は、選挙公報の類いのみ。形式ばかりが整えられ、投票行為を通して政治の実態に肉薄するという中身は忘れられるのは、バラエティ番組と変わらない、番組編成の実権は最早現場にはないのだ。
馬鹿にしているではないか、もし株や投資の模擬売買授業をやるのに、会社のパンフレットと証券会社の案内だけが配られるとしたら、どんな判断が出来るのだ。証券会社のカモを育てるばかりだ。選挙公報は「公」報とは言うものの、候補者のどんなはったりもそのまま掲載され、事後の検証は日本では問題にすらなっていない。そんな怪しげなものだけで、模擬投票が行われる。嘘を言い法螺を吹く政党が有利なわけだ。
高校や大学のクラブ活動に「選挙公報・検証委員会」を作らねばならない。文化祭に相応しい展示になることは間違いない。これこそ、主権者を育てる政治教育である。だから議員たちは、襲いかかるように潰しにかかるだろう。
校長や生活指導部長の信任投票、担任に対する拒否権の行使など、高校生を政治的主体に育て上げる種はいくらでも転がっている。そこに目を向けさせないのは、取りも直さず教員に政治的経験も決意も欠落しているからに他ならない。
模擬投票ごっこは、政治参加の入り口をたった一カ所に限定し形式だけを整えて見せた。お行儀のいい高校生をつくって。君たちは知っているか、真っ先に首を切られたり、無過労死させられるのは、おとなしく従順な人だということを。
若者が自らの権利のために立ち上がる手段は、ひとつではない。政治的行動は「清き一票」だけではない。闘うべき対象が持つ力は、多様かつ巨大である。新聞やテレビ放送網を持ち世論操作はお手の物、大量の株を保有することは、会社を支配するだけではなく株価を通して世界を牛耳り戦争を勃発させる力さえ持つ。財閥と学閥と閨閥は互いに結び合いあらゆる関係に入り込んで、我々を精神的に支配している。宗教やスポーツ・芸能も例外ではない。選挙で成立した政権を、税金で調達した武力を用いて転覆して関係者を大量虐殺することも珍しくない。
それらの不条理に抵抗するのに、数年に一度の「一票」は重要だが余りにひ弱で、無知で闘いの矛先を攪乱させられてしまう。そのために、新聞社も株も家系も持たぬ者たちに「清き一票」以外の闘いの手段が蓄えられて来たのだ。結社やサボタージュやストライキを正当な権利として認めさせるためには、多くの血と汗が流されたことを方がいい。デモや集会に参加することが、文字通り命がけであった時代もある。文学や演劇の表現が逮捕・拷問の口実にもなった。18歳になって初めて君たちの政治的権利が生じるわけではない。高一の少年にも小学生にも、政治的要求を掲げて行動する自由は元々ある。60年安保の時は、小学生のデモもあった。その事実を大仰な模擬投票で誤魔化されちゃいない。18歳選挙権は、始まりではない。単に投票への参加に過ぎない。
クラブ顧問の横暴や、生活指導部の理不尽な頭髪検査に意義を唱えて交渉することも、立派な政治行為だ。昼休みの外出を禁じるのなら食堂を設置しろというのは、温和しい控えめな要求だ。
教師は「模擬投票ごっこ」騒ぎの総括をする必要がある。
0 件のコメント:
コメントを投稿