仇をとってやりたい、少年は机を蹴飛ばした |
多摩の典型的な普通高校にいたことがあり、担任するクラスに八百屋の倅K君がいた。人見知りの少年で、知らない者、特に権威的教師に対しては余所余所しかった。真っ直ぐ向かい合って座ることも、目を見て話すこともしなかった。
あるとき些細なことで謹慎処分を受けることになった。教頭が処分を告げる時も、斜めに腰掛け目も下を向いたまま。教頭は些細な処分事実よりも、その態度が気に入らなかったらしく執拗に咎めた。K君は身じろぎもしないで、床を見つめ続けた。教頭の怒りは、親に向かった。この様子では、担任にも攻撃が回るかと思ったところでチャイムが鳴った。
僕は、『流行性感冒』を再読して、石の態度がK君にうり二つであると気づいた。石が暇を解かれて女中を続けることになっても、彼女は決して主人公に詫びない。嫁入りのために、主人公一家と上野駅で別れるときも、まるで怒ってでもいるかのように後ろを向いたまま去って行く。
もしあの教頭が『流行性感冒』の主人公なら、石が詫びようとしないことを執拗に難じたに違いない。後ろを向いたまま別れの一言も発しない石に向かって、「挨拶をしなさい、こちらを向きなさい」と怒鳴っただろう。
石の心が、幼い左枝子と別離する悲しみに押し潰され、どう振る舞えばいいのか何と言えばいいのかにさえ思いが至らない。気取りのない剥き出しの感情を、石は必死で表そうとすればするほど戸惑う。
出来合いでそつのない挨拶や仕草をたたき込まれた教師には、石のむき出しの感性は、粗野で矯正すべき人間としか映らない。
厳粛であるべき処分言い渡しの場でのK君の振る舞いは、教頭としての自尊心を打ち砕いてしまった。取るに足りない逸脱そのものより、自分の権威をハナにもかけない態度の方が許せなかったのだ。しかしその程度の薄っぺらな人間観の男がhead teacherで、更に校長になりたがっているのだから困る。生徒との対話に心を砕くのではなく、管理職試験の答案練習に励むのである。生徒による校長と教頭の直接選挙は、こうした管理職を一掃するに有効だ。
K君を僕は謹慎中に訪ねた。「謹慎」にあたるものを英語ではsuspensionといい、登校停止である。ここには授業こそが学生・生徒の権利であるとの理解がある。権利をsuspensionすることが罰となり、個人の私生活には踏み込まない。しかし日本では授業は身分的な恩恵であり、謹慎は恩恵を思い知らせるために「家に閉じ籠め、品行を慎ませる」ことである。個人の内面にまでズカズカ入り込む 。謹慎は、権力的罰である。罰は指導ではない、指導は権威の機能であり生徒にとっては権利なのだ。それを理解しない日本の教師の好きなおかしな言い回し「指導の一環としての処分」は、自家撞着であることに気付きさえしない。
僕はK君が父親を手伝いながら、ぼそぼそと話し合う光景を期待していた。向かい合って話すのが苦手な少年にとっては、協働はうってつけである。互いに向き合えないとき、共通の対象に向かって働きかけることで互いの心が同調する機会を期待できる。
K君は二階で、しょんぼりしていたが僕が帰る頃には
「おれ、八百屋になるよ。売るのは野菜だけどさ、店にジャズを流して内装も工夫したいんだ」と少し笑顔が見えた。僕は何を彼に話しただろうか。思い出せない。おしまいに
「お父さんとお母さんに、教頭の失礼を謝っておいてくれないか。ここに上がる時には、店には客が立て込んでいて言えなかったんだ」と言い残して、買い物客で賑わう夕暮れの通りに出た。
ある日の授業で、K君が突然机を乱暴に蹴飛ばして「ちきしょー」と呟いた。ベトナムや中国で、日本軍が何をしたのかをやや詳しく実話を読んでいる最中だった。みんな驚いて静まった。
「だって酷いじゃないか、おれ日本軍が許せない。仇をとってやりたい」と続けて机を睨んでいた。。
僕が下町の工高で教えているとき、こうした剥き出しの反応が同時に何人も、時には集団的に、度々あったことを話した。多摩の生徒たちは、「スゲー」と笑った。
active learningや国際化が流行って久しい。僕はそんな言葉で新しがるより、民族を超えて「仇をとつてやりたい」と机を蹴飛ばす生徒が続出する授業を望む。
追記 冒頭の写真は、上海南駅への日本軍による爆撃跡で泣く赤子を中国人写真家が撮ったもの。「LIFE」誌が掲載、「読者の選んだ1937年ニュースベスト10」に選ばれている。
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