人びとが集って議論する郷校は私の先生だ。それを潰すことはない。

高圧的な態度で民衆の怨みを抑えることができるという話は聞いたことがない。
鄭人游于郷校、郷之學校。以論執政。論其得失。
然明謂子產曰、毀郷校何如。
子產曰、何爲。夫人朝夕退而游焉、以議執政之善否。其所善者、吾則行之。其所惡者、吾則改之。是吾師也。若之何毀之。我聞、忠善以損怨。不聞作威以防怨。
豈不遽止。然猶防川。大決所犯、傷人必多。吾不克救也。不如小決使道。 『春秋左氏伝』

 鄭の人びとは郷校に集って、よく政治を議論した。
 然明が鄭の大臣・子産に、こう言った。
 「郷校を潰したらどうです」
 子産は応えた。
 「どうしてだ、人びとが朝夕暇なときに集って、政治の善し悪しを議論する。私は、彼らが善いと言う政策を行い、悪いと言う政策は改める。だから、郷校は私の先生のようなものだ。それを潰すことはない。良心と真心によって民衆の怨みを緩和するという方法は有るが、高圧的な態度で民衆の怨みを抑えることができるという話は聞いたことがない。川の流れに嘗えを取れば、無理やりにせき止めようとすると、一時的に流れを止めることは出来ても、やがては大決壊が起こる。高圧的な態度を採るというのは、そんなものだ」

   『春秋左氏伝』は孔子編纂と伝えられる歴史書『春秋』の注釈書、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。

  1970年代、愛知県に「三校禁」なる掟があって当時の県立高校長会会長は
 「それは事実、三校以上の交流はやらせていませんね。極端に言うと二校もいけない。先生がついていればいいけど」と応えている。その根拠をこの校長はこう言っている。
 「新聞とか文芸とか放送とか、仲間に訴えるような手段を与えると、日共系の組合の先生が牛耳ろうとするんです。ワシが旭丘の校長でおったときに、組合とはサンザンやり合ったが、ちっともいうことききよらん。あいつら、人間じゃねえや」(宇治芳雄著『禁断の教育』汐文社) 
  彼にとって、自分の意に添わない者は人間ではないのである。生徒も集えば、不満を言い合い反抗的になると考えていたのだ。「郷校」のように生徒も教師も自由に集って、学校のあり方の「善し悪しを議論する。私は、彼らが善いと言う政策を行い、悪いと言う政策は改める」よう思いを巡らすことはないのだ。憐れである。対話する楽しみや喜びを求める精神もないのだ。支配する者と支配される者の関係だけである。
 彼も公務員になるときに、憲法を守る旨署名捺印したはずである。
 そして今、職員会議は議論の場でもなく、決定の場でもない。はじめ校長の権限を職員の多数決から守る処置であるような説明をしていた。しかし校長が、職員の決定を尊重すると言う意思さえ認めないために、多数決そのものを禁じてしまった。つまり校長の権限そのものさえ奪われたのである。行政の末端として、上からの決定を伝える伝声管と成り下がって恥じない。学校から議論は消えたのである。
 孔子が注釈した紀元前の鄭の状況に及ばないのである。
 「郷校は私の先生のようなものだ。それを潰すこはない。良心と真心によって民衆の怨みを緩和するという方法は有るが、高圧的な態度で民衆の怨みを抑えることができるという話は聞いたことがない」
 自分が校長として判断したことが、正しいか間違ってるか、皆からどう受け取られているかなどを、気にかけない。 それは教師でないだけでは無く、生きた人間ですらない、意思を持たない驢馬に過ぎない。そんな存在であることを恥じる精神も持てない、生徒から軽蔑されていることにも気づかない。
 正邪の判断の出来ない驢馬がすることが出来るのは、ただ命じられるままにすることだけである。今の校長に、『春秋左氏伝』を読んだことがあるかと問いかけて、対話が始まる一縷の望みもない。

 ゲバラが1960年、医療関係者に語ったことが想い起こされる。
 「今日われわれが実践すべきことは、連帯なのだ。「ほら、来ましたよ。慈善を施すために来てあげましたよ。学問を教え、あなた方の間違いや教養のなさや基礎知識のなさを直してあげるために来たのですよ」などという態度で、人民に接するべきではない。人民といぅ、巨大な知恵の泉から学ぶために、研究心と謙虚な態度をもって、向かうべきなのだ。・・・われわれがまずやらなければならないことは、知識を与えに行くことではない。・・・ともに学び、・・・偉大で素晴らしい共通体験をしたいという気持ちを示すことである」

 高校生も含めて、若者たちの中にゲバラに惹かれる者は少なくない。「三校禁」以降の「高圧的な態度」が、その流れを準備し「川の流れに嘗えを取れば、無理やりにせき止めようとすると、一時的に流れを止めることは出来ても、やがては大決壊が起こる」に違いない。
 問題は、青年がゲバラのように建設的な未来を指向するのではなく、弱者への弾圧と破壊に向かう可能性が現実となりつつある事だ。

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