「野球部の生徒は、何をしていても、教師を見かけたら直立不動で「こんにちは!」と言わなければならないことになっているらしいです。僕が「あいさつはいいから練習を続けていいよ」などと言うと、生徒は変な顔をします。そんな反応をするのは僕だけなのでしょう。軍隊のような規律を生徒に課すことを、ほとんどの教師が疑いもなく受け入れている状況で、僕はどうしたらいいのか」 「K高校体育科出身の若い先生が、「うちはもっとすごかった。体育科の下級生は、先生や上級生と廊下ですれ違うと、すれ違った人数分だけ『おはようございます!失礼します!』と言ってから通り過ぎなければならなかった。もし10人の先輩とすれ違ったら、先輩たちが通り過ぎてしまっても、『おはようございます!失礼します!』を10回言い続けなければならなかった」と言っていました。同じ上級生でも、普通科の生徒とすれ違ったときは、あいさつしないんだそうです。これはほとんど漫画です」
駅前の商店街を抜けたところに位置する高校に赴任した、若い教師の悩みである。
1980年代までは、教員が校庭を通ればクラブで練習中の生徒たちは、てんでんバラバラに手を振ったり名前を叫んだりしていたものだ。風景が一変したのは、校内暴力対策に大学体育会格闘技系クラブ出身者を教育委員会が採用し始めてからである。生徒の逸脱に手を焼いて、学校が暴力で生徒を制圧するようになったのだ。同時に体育会的人間関係が持ち込まれ、年齢を超えた友情関係が、先輩後輩という身分関係に書き換えられていった。挨拶は部活の管轄となり、教師は「毅然とした指導」と言う言葉を乱発、殴るようになる。知性を失ない、生活指導部自ら暴力の虜になった。集会でも生徒処分でも体育会系的手法が巾を効かせるようになった。一度始めたら歯止めがきかない。集団になったとき判断を棚上げする訓練が学校に充満する。それは少年も教師も東電も変わらない。
もし繁華街の人混みで野球部員が寄って来て穏やかに「先生こんにちは」というのであれば、それは親しみを込めた挨拶だろう。彼は、部以外の生徒たちや地域の仲間といるとき、または学校を離れて一人の時でも直立不動で「こんにちは!」と言うだろうか。野球部という集団に取り込まれているとき、「直立不動で「こんにちは!」」と言うのではないか。個人のマナーの代わりに集団の掟を置く。ある大学の学生たちが、長めの学生服姿で駅の構内や電車の中でも、直立不動で「オッス!」をやって住民の顰蹙を買ったことがある。自分たちの独りよがりな掟のためには、市民の生活日常は目に入らなくなる。かっこいいとさえ錯覚する。日本侵略軍のアジアにおける秩序である。インテリまでが、こうしてアジアの人殺しとなった。捕虜となり何年も収容所で過ごし、初めて敵国人にも母があり家族があったことに愕然とする。
自らの判断力・意志を捨てて、集団の掟に没入することの「美」を田辺元は若者に植え付けたのだ。冒頭の野球部はそれをやっている。挨拶は、個人の価値観で個人の意志でやってこその親しみであり敬意である。部活が、戦後民主主義精神を根こそぎにして打ち枯らそうとしている。「挨拶」「そろって」「元気よく」教師の好きそうなことだ。人間的感情は、だらしなさの中にある。
たとえ練習中であっても、「教師を見かけたら直立不動で「こんにちは!」と」叫ぶ。であれば彼等は、野球が好きだったり夢中になってはいない。夢中であれば通りがかりの教師に気付く筈がない、たとえ気づいても目礼がせいぜい。緊張がとぎれてしまう。集団に依存して意志を捨てた状態に中毒している。野球部の代わりに、会社・カルト・ヘイトスピーチ集団・ヤクザ・・・・を入れてもいい。
国民全体が一つの集団に擬せられた時、どのような光景が日本に広がったかを思い起こさねばならない。その全体主義的傾向に抵抗できたのは「不良」生徒学生であった。
「結束」「集団」「秩序」「整然」等という言葉に、教師は依存したがる。それが万人の価値だと錯覚するからである。 既存の秩序に抵抗対抗する精神を育むことなしに結束を「指導する」のであれば、民主教育の言葉を捨てねばならない。いつも負ける、それでも正々堂々とplay して楽しめる、その覚悟・精神がなければ「連帯」することは出来ない。
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