宝塚歌劇団生徒まで慰安婦にしようとした日本軍 

皇軍は自国の家族のために命を捨てろと言わせたのではなかったか。
こともあろうに将校が劇団の『女の子を差し出せ』と・・・
 戦時中、宝塚のレビューは禁止され劇場は海軍に接収されて予科練の宿舎になり、宝塚の生徒らは各地の日本軍へ慰問公演に動員された。
 泉エリザさん(芸名:千里ゆり)が1944年に、北海道や樺太への慰問に動員されたときのこと。ある晩トイレに起きると、付き添いの男性教師らが廊下に座り込んでいた。
「将校が『女の子を差し出せ』って。それで先生たちは寝ずの番をしてくれてたの」・・・
泉さんが慰問公演を終えて宝塚の自宅に戻ると、「なんだかおじさんみたいな兵隊さん」が週に一回訪れ、風呂に入り「畳に寝っころがってぼーとしていた」。後に映画監督・脚本家になる新藤兼人さんである。
 連日の上官からの暴行に「もう、敵がアメリカなのか帝国海軍なのかわかりませんでした」と当時を振り返る新藤さんは、タカラジェンヌの慰問公演だけが楽しみで、ぜんざいを作り生徒たちにふるまった。物資が欠乏する中、後に新藤さんと結婚することになる女優の乙羽信子さんは「水っぽかったけど、あのぜんざいが楽しみだった」と語った。
 新藤さんは終戦の日に玉音放送を聞いて「ああ、これでまた脚本が書ける」という解放感を忘れたことはない、という。                  2009年2月9日朝日新聞「愛 タカラヅカ⑧ 軍歌去りレビュー再び」
 
 1945年8月18日、敗戦から3日後に日本の内務省は地方長官あてに「外国駐屯軍慰安施設等整備要項」を出している。つまり、占領軍を対象にした国家公認の売春施設を設けろということだ。そして設立されたのが「特殊慰安施設協会」。これが日本の権力者の持つ女性観である。/8.26 接客業者ら、特殊慰安施設協会「Recreation and Amusement Association」(RAA)を設立。/8.27 東京・大森に最初の施設「小町園」開設。  瞬く間に開設している。経験が当局にも業者にもあったからである。ほんの昨日まで一億総玉砕を叫んで、鬼畜と罵った相手にここまで卑屈になれるのか。 当時の金額で一億円という巨費を投じて開設した特殊慰安施設、この年の国家予算215億円。占領軍はこれを「Sex House」と呼んでいた。
  8月28日には「特殊慰安施設協会設立宣言式」も行われ、設立趣意書まで読上げられている。
 「畏くも聖断を拝し、茲に連合軍の進駐を見るに至りました。一億の純血を護り以て国体護持の大精神に則り、先に当局の命令をうけ、東京料理飲食業組合、東京待合業組合連合会、東京接客業組合連合会、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京慰安所連合会、東京遊技場組合連盟の所属組合員を以て特殊慰安施設協会を構成致し、関東地区駐屯部隊将士の慰安施設を完備するため計画を進めて参りました。本協会を通じて彼我両国民の意志の疎通を図り、併せて国民外交の円滑なる発展に寄与致しますと共に平和建設の一助となれば協会の本懐とするところであります」
 こうして、日本各地に「特殊慰安施設」はつくられた。 RAAには最盛時、全国で7万人、閉鎖時でも5万5000人が「特別挺身隊員」と呼ばれていた。

  占領したのは男女平等の国である。女性兵士向けに「男慰安夫」がいたことが、昭和研究グループ 著『戦後の日本を知っていますか?―占領軍の日本支配と教化』にある。
 昭和21年、慰安夫に採用された一人は名古屋に進駐した女兵対象で、厳重な体格検査に合格。とにかく、心臓、胃袋、眼、皮膚、筋肉、血液、尿などが検査され、性病、痔の有無まで調べられた。松坂屋の近くに焼け残った木造アパートがあり、体格検査に合格した数人の若者に一人一室与えられた。最初の客は、なんと試験官の伍長だった。「乳房は二個の飯ごうのようで、故郷の牛を思わせる腰だった」。勤めはさすがに一日おきで、日給三ドル。その他、肉、バター、チーズなど、体力回復のためいくらでも支給。 しかしきつかったと言う。結局、この慰安夫は丸半年間、その女伍長に軍務あるとき以外は買い占められた。

 30年後、近衛首相の指示を受けRAAをつくった元警視総監・坂信弥はインタビューに応えて「正直」に答えてしまっている。
 「いまさら、そんなことをなんで聞くんかね。次元が低い問題だよ。・・・近衛は支那事変で日本兵が支那の女たちにやったことに覚えがあるから、ヤマトナデシコを救おうという気持ちで、彼ならやってくれると、総理官邸に私を呼んで頼んだんだ。・・・あれ(RAA)は国の運命を左右する問題でなしに、アワツブみたいな問題に過ぎん。応募した女性をイケニエのように言う人がいるが、そんなのは火事場の野次馬議論であって、観念論だよ。他にどんな方法があったか、というんだ。            大島 幸夫著『原色の戦後史』講談社文庫  
 「日本兵が支那の女たちにやったことに覚えがある」からと、従軍慰安婦が「制度」であったことを匂わせている。

  1945年9月2日開業予定の小町園慰安所には、同年8月28日、マシンガンで武装した米軍兵士達が乗り込みすべての慰安婦たちを強姦。他にも、1945年9月5日に武装した米兵が玉の井近くの鳩の街に押し寄せている。
 横浜のある慰安所では、100名を超える武装した米兵が開業前日の慰安所に乗り込み慰安婦14名を輪姦。さらに翌日、抵抗した慰安婦を米兵が絞殺するという事件が起こり、開業二日目で閉鎖された。開業後の慰安所では、どの部屋からも男たちの笑い声と女性たちのすすり泣く声が聞こえていた。精神を患う慰安婦、自殺する慰安婦も少なくなかった。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦され、9月5日には神奈川県の女子高校が休校処置を執っている。しかし、9月19日にはGHQがプレスコードを発令、以後は連合軍を批判的に扱う記事は報道されなくなった。
 武蔵野市では小学生が集団強姦され、大森では病院に2〜300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦されている。その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の占領軍兵士による日本人女性の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角に過ぎない。

 1946年11月15日には池袋で、MPと日本の警察により、通行人であった女性たちが無差別に逮捕され、吉原病院で膣検査を強制された板橋事件が発生。女性のなかには日本映画演劇労働組合員だった女性が含まれており、同組合は抗議運動を展開し、新聞などでも報道され、加藤シヅエら議員もGHQに抗議の手紙を送っている。
 抗議に対してMP側は「狩った女たちをどんなふうにしようとこっちの勝手だ。それに対してお前たちは抗議などできない」と高飛車であった。しかし日本映画演劇労働組合も果敢に闘い、女性を救い出している。

追記 戦後の国内においてさえ、政府の非人間性、ましてやアジア諸国における日本軍が、いかに高飛車であり残忍であったかを想う。元警視総監・坂信弥が「あれはあれで日本女性の貞操の危機を救ったんだよ」と言っている。不貞不貞しいにほどがある。戦争を始めたことに根源的な責任を彼らは感じない。それ故彼らを国民の手で、戦犯法廷に立たせ裁き全ての公職から追放しなければならなかったのである。 

0 件のコメント:

コメントを投稿

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...