自分に克つって、どういうこと

  部活の好きな言葉「自己との闘い」とは何か。教育業界共通の慣用語である。
 一銭もかからないように見えるから、我慢させられる側のまじないにもなっている。

 元来、自己はその対概念である社会や文化や他者、つまり自己を超えた非自己とのかかわりのなかでしか捉えられない。自己そのものは本質的に不可知なのだ。不可知なものと闘うことは出来ない。枯れススキや古びた鏡に写るおぼろげな虚像を相手に蛮勇を振るうようなものだ。
 従って枯れススキや鏡像を敢えて実態と強弁して、自己と闘うには、実態としての対概念そのものを排除する、つまり邪念をはらうしかない。
 スポーツ選手、受験生、企業戦士、修行者、侵略戦争兵士を統率指導する立場にある者が、対象者を実社会から隔離するトリックである。ひたすら集団の虚妄に集中させる。交友・休息・学習・恋愛や原発、辺野古、貧困・社会問題を一括して、誘惑と言いくるめ眼を逸らすようにし向ける。
 しかる後に、もっと目立ちもっと儲けたいもっと殺したいという集団の虚妄に負けさせる。欲望に負けさせることを自己に「かつ」と言い換えるのである。何かを成し遂げた気分にさせる。そして自分にご褒美と言うのである、欲望に負けている。

 青少年が社会や文化から眼を逸らすことが健全であるかのような錯覚を与える言葉なのだ。若者が視野を広げ文化的に豊かになることが、企業の利益やチームの勝利、国家の侵略行為とは相容れないことを白状している。

 自己と闘うことを疑う、それが青少年の自覚的成長の始まりとなるだろう。自己を管理統制する集団からの自立だからである。
  自己との闘いを生徒や部下に強要する者たちが、体罰という誘惑に負けたがることからも、この言葉のインチキ性は見えるはずなのだ。見えないのは枯れススキに自己を見ているからである。大切なのは欲望に勝ち負けすることではなく、欲望から自由になることである。県毎のオリンピックメダル数にはこだわらないのに、国毎のそれに熱くなるのは我々が何時までも枯れススキを相手にしているからである。

 身近にオリンピック強化合宿に参加した人間がいる。

  「先日、卒業して二十数年ぶりに、私立中学、同高校水泳部の同窓会に出席し、懐かしい写真などを持ち寄り、時を過ごしました。
 私が、本格的に競泳選手として練習を始めたのは、中二になってからですが、中三の頃には全国中学校選手権大会、国民体育大会などと、試合の場は広がっていきました。「休めば体力が低下する」「己に克て」「雑念を持つな」と、常に全力を向けるよう、スポーツ選手特有の指導をされてきました。
 冬は、主に陸上トレーニングと室内プールへ通い、大学のスポーツ生理学教室へ体力測定に行き、より効果的にと秒単位にさまざまに工夫して組み立てられたトレーニングがほとんど休むことなく続けられました。
 夏は、四月下旬から屋外プールで練習が始まり、試合に合わせて一学期の期末テスト前から合宿生活に入り、そのまま二学期の中旬まで強化練習や遠征が続けられました。
 私は、よくプールの入り口にくると腹痛が起こり、歯をくいしぼりながら練習をしたこともありました。
 そんな、すべてが水泳中心の時期を一緒に過ごした者たちが久し振りに集まり、こんな話が出ました。
 「一日八〇〇〇メートルも一万メートルもプールで練習していたのに、海へ遊びに行っても、なんだか怖くて、どうやって泳いでいいのかわからないのよねー」
 「ターンするところもないしね」
 「いまだにプールへ遊びに行っても、隣に人が泳いでいると、つい負けまいとがんばってしまうので楽しくないのよねー」(K)」                           『平凡な自由』大月書店

 Kさんは小学生の頃、肉を食べることができず、同級生から栄養失調とからかわれるほど痩せこけていた。それが、水泳大会のTV中継でインタビューを受けるほど丈夫になったのだ。
 インタビュアーに何が望みかと問われて、思わず「もっと大きくなりたい」と答えてしまったそうだ。だから、いまもからだは小さい。
 文中の「雑念を持つな」とは要するに、「男女交際をするな」ということだが、何の疑いも持たずデートの誘いから逃げまわったというからもったいない話だ。スポーツ選手は頭が弱いと言われるのがイヤで、毎年優等賞をものにして「己に克」った。
 運動部の教師は無茶を言う。「休めば体力は下がる」なんて非科学的なことを。まったく世界の常識からズレている。
 ともあれ、僕などは話だけで息切れしそうな鍛練のおかげで、就職もコネでスイスィ、風邪などひいても働いてその日のうちに治し、トラックにひかれても骨にヒビ一本入らず医者を驚かすという超元気主婦になってしまった。
 あんなに痩せ細っていた少女が、好きな運動で見違えるほどになるのだから、それはそれですばらしいことだ。しかし、Kさんは、記録と成績に呪縛されての精神的圧迫から、何度か心臓マヒを起こしかけたことがあるという。
 健康になるのが目的のスポーツのために、いつの間にか死に至るとはあってはならないことだ。
 だから、彼女はいま順位のある事柄すべてが好きでない。順位を目当てに努力することをつまらないと感じている。日本記録を持っている人間がそう言うのだから迫力がある。
 食事の量や睡眠の長さが一人ひとり違うように、それぞれの健康のためのスポーツの練習量は違うはずだ。それが、記録のため、学校のため、国家のためと個人を離れると、人間はほどほどを知らなくなる。マラソンの円谷のように自殺したり、ジョギングの提唱者のように、心不全でジョギング中に死んでしまっては何にもならない。

 ほどほどにして楽しもう。オックスフォードではレガッタ(ボートの試合)に頭のはげた年配の学生が出てくる。楽しんで息長く活躍すればいい。
 もう一つ、僕が学校の運動系クラブで非常にイヤなことは、馬鹿げた上下関係だ。たった一歳の差でさえ絶対化するなどとむっいうことをしているうちは、この国から天皇制が消えることはあるまい。
 元来サービス精神旺盛でやさしいKさんは、上級生、下級生の区別など気にならなかったから、たとえば、下級生が上級生のマッサージをすることになっていても、必要な人間に手のあいた者がやってやればいい、という精神で下級生でも同級生でも平気でもんでやったという。したがって「変な、おもしろい先輩」と人気絶大だった。
 ただ、四〇代になった彼女たちも、集まると「先輩!」と言い合うらしい。これは困ったことだ。
平和になっても、元軍人が軍歌をやりたがるのに似ている。
 子どもの頃からきちんと、個人名で呼び合うのは、民主主義のためにどうしても必要なことだと思う。
 せっかくのKさんのやさしさが、「変な先輩」じゃかわいそうだ。
 Kさんは、今度生まれたら、断じてフツーの女子高校生になるそうだ。遅刻も欠席もデートもほどほどにこなし、練習も時には怠って。そうすれば、きっとプールや海で泳ぐのも楽しくなる。
 いま、Kさんは目の見えない老人たちの介護をボランティアでやっている。こういうところでこそスポーツで鍛えた心とからだが生きるに違いない。

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