学問は一種の美学を必要とする

  「ある数学者がペンクラブで話をされたのをたまたま聞く機会があったのですけれども、日本には当分数学の大天才は現れないだろう、とその数学者は言っておられました。何故かというと、数学というのは三つ条件がある。インドの南の方の村の話を例に引かれて話しておられたのですけれども、そのインドの貧しい地域のある村で三人くらい、いわゆるノーベル賞級の数学者が生まれている。不思議に思ってその数学者が村へ行ってみますと、周り中貧しいのだけれども、何百年か前にたいへん優れた坊様がいて、美しい建物をたくさん作った。その村の子どもたちはその美しい建物を出たり入ったりして遊びながら育った。環境が美しくないと数学者は育たない。二つ日には、それと関連があるのですけれども、素晴らしいものを尊敬し、ひざまずくという敬虔な気持ちがないと数学者は育たない。三つ目には精神性というものを何よりも大事にする。この三つの条件が揃わないと数学者は育たないのだと。・・・数学というのは一種の美学がなければ成立しない」    辻井喬『短歌の伝統について』2005年 憲法九条を守る歌人の会発会講演

 この話を確かめてみた。ノーベル物理学賞のラマン、同じく物理学賞のチャンドラセカール、化学賞のラマクリシュナン、ノーベル賞をとったインド人は自然科学ではこの三人。世界的天才数学者ラマヌジャンを加えてて四人の出身地は半径50キロの円内。辻井喬が聞いたのはこの事だと思う。そこは南インド、タミルナードゥ州。幾何学的な美しさで知られるブリハディシュワラ寺院がある。
  一種の美学を必要とするのは、数学だけではない。国立大学行政法人化後、科学者の論文数が減少している。日本だけである、クールジャパンならぬフールジャパンである。中国や欧米などはいずれも急激な論文数増加を示している。日本のノーベル賞受賞者数は、人口当たりにすれば31位程度であり、新聞の単純ランキングでの5位や3位  を大きく下回っていることは知っておいてもいい。オリンピックメダル数やGNPも人口を勘案するとぐっと落ちる。前者で50位程度、後者は18位。
 行政法人化は政府が「素晴らしいものを尊敬し、ひざまずくという敬虔な気持ち」知性に対する憧憬を、短期的成果に置き換えた末の愚行である。「素晴らしいものを尊敬し、ひざまずくという敬虔な気持ち」を表したものが、旧教育基本法であった。
  どんな大学が、どんな高等学校が、どんな小中学校が、如何なる環境の如何なる校舎を持っているのか知るべきである。どんな住宅・環境に人々は住んでいるのか足で見て歩け。この国の建築基準法は壁や柱の規格は定めるが、住まいが人権であり歴史文化であるとの哲学を持っていないのである。

  これはノーベル賞が「精神的な美学」を持っていると仮定しての話である。文学の精神世界や平和の価値判断を迫られる分野まで自らの賞の対象にしてしまったことに、美学からの傲慢な逸脱・撤退があると思う。賞は優れたものを称える他に隠された機能がある、それは優れた業績や個人を特定する権威が自らにあると宣言することである。ノーベル経済学賞はその正式名称「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」からして怪しげである。「精神的な美学」への侮辱である。ノーベル賞飴を嗤ってはならない。ノーベル経済学賞は疑惑の固まり、怖気に満ちている。

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