(紛争への姿勢と民主化)
ただ、紛争が起こったか起こらないかということは、大学入試の成績なんかには関係なかったですよ。つまり、一部の生徒からワーツと起こってきて、それにどう対処しようかと教師も真剣になってとりくんだでしょう。その意味ではよかったんです。教師が初めて真剣になった。最初は〝あいつらは自民党に反対してるんだから、生徒の前ではおれも自民党は嫌いだと言ってりゃいいんだ〟と呑気なことを言っている教師が、みんなやられたわけですよ。〝おれたちはそんなことを言ってきるんじゃない、そういう無気力な教師が嫌なんだ″とか〝おまえは受験のことしか言わないじゃないか〟とか〝おまえは体育祭を、ただ子どもを連れて見ているだけじゃないか″とか、バーッとやってきた。
樋渡 教師にとってほ、戦後二十数年続いてきた教室における平和が初めて破られ、やっと現実に目覚めさせられたという側面もあったわけですね。
三戸 そう。生徒のことを考えない管理主義的な教師もやっつけられたし、面倒くさいから生徒にはいい面して、自由放任で過ごした教師もやられたし、みんなやっつけられたわけですよ。そのなかから、そのどっちでもいけないんだということを考える教師が育ってきた。そうしないとどうにもならないわけでしょう。
なぜ紛争が起こったかということをとらえないで、とにかく押さえなきゃいけないというので管理主義的にパッと能率的に押さえた学校と、警官隊を呼んじゃった学校はなかなかうまくいかないですね。少々手間どったけれども、役所や親たちに、なんであの先生たちはモタモタやってるんだ、あんなことをやるやつは早く押さえりゃいいじゃないかと言われながらも、じっくり教師全体で討議して、その結論を出したうえで生徒とじっくり話し合って、そのうえで暴力などの問題についてはきちんと押さえよう、同時に、どう再建していくきということを生徒と一緒に考えようというふうに、民主的に職場を運営して解決していった学校は、いまはいいんじゃないですか。
あとあと学校行事もよくなっているし、学校自体が活気をもってきているし、ほんとうの意味で民主化された、明るい、生徒にとっても楽しい学校になっているような気がします。あの紛争の押さえ方が、すごく学校を左右しましたね。
樋渡 ぱくは高校紛争の直前に浪人して、紛争真っ只中の大学に入りました。だから両方とも、気分はわかる。安保闘争のころまで続いた学校の雰囲気が、だんだん閉塞してくる。現実的な問題として、ヴェトナム戦争、日韓問題と政治的な重圧がジワジワッとやってくる。それから、人間が偏差値だけで評価されることに慣らされてはいるけど、他方でその分反発を感じる。能検テストが始まる。自分の生き方にあまり希望がもてない、社会をつくっていくといぅ感じがだんだんなくなってきて、せいぜい、いい成績をとっていいところに〝はまる″という、ただそれだけになりそうな不安が膨れあがる、・・・自分が自分になれないことの苛いら、それらを大人に投げかけていったんだと思うんです。〝なんで生きるのか〟〝こういうことについて先生はどう思うんだ、親はどう思うんだ″と、ぼくたちは教師だけでなく親もつるしあげた。そのとき、親も教師も答えてくれないというイライラもあった。〝とにかく成績がよくなければ大学に入れないじゃないか、いい大学に入れなければいいところに就職できないじゃないか〟というのが、すでに親のにあったし、社会もそっちのほうに曲りつつあったわけです。自治会活動も低迷してきていた、行きどころのない不安、あるいは少しずつ迫ってくる管理社会に敏感に反応して、たまらず自己防衛をしたという側面が、高校紛争のなかにはあったんじゃないかと思います。
それから、ぼくが大学にいて高校紛争の始末のつけ方は総体的に暴力的だと感じた。これじゃ高校生はすぐ黙っちゃうだろうなぁと、当時からそういう気がしていました。思ったとおり、高校生はアッという問に静かになった。一連の大学管理法案以来、大学もだんだん静かになっていく。そういう嫌な雰囲気を、ぼくは高校から大学までずっと経験した。
(受験体制)
樋渡 紛争で、高校の服装の規制がゆるやかになって、制服はなくなる、学帽もなくなる、規制が大幅に取っ払われたんだけれども、小・中学校ではかえって規制を強めたところもあったんですね。
三戸 学園紛争のあと、カリキュラムまでおおかた生徒の意見でつくりあげた学校もある。どっちにしても、教師が生徒のことを考えながら、生徒の要求も聞きながら主体的に自主編成をした学校はいいけど、そこのところがいい加減でズッコケていたところは、より強く規制した場合も、まったく自由にした場合も、全部失敗しているんですね。自由にした場合は言いなりになっているわけで、教員の側に主体制がないんだから。規制したほうも、教員側に主体制があって規制したんじゃなくて、教育長や親や警察からワイワイ言われて規制しちゃった場合には、やはり教師の側に主体性がないわけだ。
教師の側が教師集団としての民主的な討議と主体性をもっていなかった場合は、紛争はハシカみたいなもので、あ、終わった、というので、その前と後と比べる、と学校はなにもよくなっていない、生徒の無気力状態も全然変わっていない、そういう学校はずいぶんある。
樋渡 無気力は、三無主義が四無主義・五無主義になっちゃった。
(自主編成)
樋渡 そうすると、五九年に提起された自主編成運動というのは、高校紛争を境に活発化したところもある。
三戸 自主編成運動というのは日教組でやったわけだけど、実際に効果をあげているところはそんなに多くないんです。現実の問題としてむずかしい問題がいろいろ出てきちゃう。どこまで指導要領などと関連させて自分たちがつくったものが生かされるのかという問題もあるし。よほど職場が民主化されていて、職員会議なり職場会なりで絶えず教育問題が議論されているような職場じゃないと、ほんとうの意味の自主編成はできなんですよ。そうじゃないと勝手編成になっちゃう。
たとえば福岡県の伝習館高校の問題は、ぼくも執行委員のときに調査に行かされたけど、あれは権力にたいする闘争として立派だったと言う人もいるんですが、日教組もそういう評価はしていないわけですよ。あれは誤りだったとしている。ということは、あれはごく一部の教員の勝手編成なんですね。たとえは、地理の授業で毎日安保反対という調子の講義をした、真実を伝えようとしているんだからそれでいいじゃないか、なぜ干渉するんだというふうに、バラバラになっていっちゃうわけですね。地理の授業ではどういう授業がいちばんいいのか、それを少なくとも社会科なら社会科の教員のなかで討議してやっていかなきゃいけないわけでしょう。教科書だけでは子どもはよくならないと思ったら、教科書以外にどういう内容のことを教えたらいいか、地理の授業のなかで毎時間政府を叩く話をするのがいいのか、地理の授業で帝国主義反対を言うことが果たしていいのかどうか。そこのところで、本人がやりたいというのだったらいいじゃないか、言論の自由だ、干渉するなという勝手編成に走った学校もあるわけです。そういう意味では伝習館高校は、非常に大きな間違いを一部の先生がしちゃったんじゃないかと思うんです。
樋渡 1972年、僕は憧れの京都で教員採用試験を受けました。高校政経の合格者は三人、三人で集団討議をさせられた。テーマは杉本判決をどうとらえるか。大胆にしゃべったつもりですが、面接をした人がさらにすごかった。つまり、判決が出ただけではまったく不十分なんだ、杉本判決を現場で現実に生かしていくのは教師になった君たちなんだ、そこのところをしっかり自覚してほしいと、かえってハッパをかけられた。そのことをいま思い出した。
京都では教育委員会も民主的であって、高校三原則が長い間続いた、。それと東京の教育の変遷を考えてみると、制度をつくり守ることがいかに重要か、日々の授業までまったく変えてしまう重大なことなんだなと思います。
高校の教員になってから、高校生の集いなどにもときどき関与していて、それがだんだん小さくなって情けない思いをしていたんですが、京都では、憲法記念日に高校生たちが討論集会をやると何千人も集まる、しかもその前に地区あるいは学校ごとに討論会をやって積み上げていくという形が、つい最近まで保たれていたというのを聞来ました。もし戦後教育の理念が続いていれば、かなりいい教育がまだ残っていたんじゃないか。比べてみて唖然とするところがあります。
もう一つ、七〇年以降の大きい問題として、共通一次が学校を変えるのに拍車をかけたんじゃないかと思うんですが。
(大学輪切り)
三戸 一般に言われているように、中学生が高等学校を受験するときに偏差値で輪切りにされて受験するというのと同じ現象が、高等学校と大学の間にもできてしまったということが、いちばん問題でしょうね。
共通一次をやるときには、あまり墳末な問題が出たのでは高校生もたいへんだから、ごく基礎的なことを勉強していればいいんだということで、共通一次というのを考えた。もう一つには、国立大学の格差をなくそうじゃないかというので、国立の二期校だったところから非常に強い要求が出て、一期・二期というのをやめて同時に試験を受けるようにしようというところから出てきたと思うんですが、結果的には、七百何十点ならどこの大学、八百何十点ならどこの大学の何学部へ入れる、医学部へ行くためには九百何十点とってこなきゃいけないということになったものだから、ほんとうは医学部へ行って医者になりたかった子が、七二〇点しかとれなかったから経済学部に入るというふうに、学部志望なんかそっちのけで、共通一次でとった点によって業者のデータを見て大学を決めるということが、共通一次が残したいちばん悪い点でしょうね。現実にそうなってきちゃっている。これが大問題ですね。
(期待にこたえる)
三戸 生徒の心のなかには、いいことを学びたいんだというのは非常に強くありますね。・・・教員にたいする期待感、きょうは何を教えてくれるだろうというものは、すごくあるんじゃないか。
ぼくも、この年になるとつい惰性でいっちゃうからいけないんだけど、教員になりたてのころは、きょうは何を教えてやろうかという願望はすごくあったし、教員にはそれがなきゃいけないわけでしょう。自分はこういう勉強をした、これはどうしても生徒に教えてやらなきゃいけないというのでつい夢中になって、翌日一時間まるまるそのことだけを話すということがあってもいいわけ。そういう教師の情熱があるから、授業にも迫力が出てくる。生徒は必ずそれに吸いつけられていくんですね。教師がその基本を忘れたらたいへんなんじゃないか。だから、たえず教師は勉強すること、勉強したらそれを生徒に伝えてやりたいという情熱をもつということが、すごく大事じゃないか。それがわれわれにいま欠けているんじゃないですか。〝そんな事言ったって、生徒はどうせ大学へ行きたいんだから、受験に合わせなきゃ闇いちゃくれない〟というふうに簡単に諦めちゃう傾向がありますね。それは間違いだ。
これだけ受験がたいへんで、生徒が大学へ、自分の進路に適う大学へ行きたいとすれば、それを助けてやるのはあたりまえのことだけど、基本的に自分の教科について、豊かな内容で、生徒がクッと食いついてくるものをつくっておかないといけないんじゃないか。それがなくて、これは大学の試験に出るから勉強しなさいと言ったって、しないと思う。
それがしっかりしていれば、学校は当てにならんからと塾や予備校に逃げて行くということはないんじゃないか。その情熱がなくて、内容もなくて、ただ表面だけ受験に合わせたような授業をやっている場合は、よけい予備校や塾に生徒が流れていくと思いますね。一見、直接受験に関係ないようで、非常にいい内容の授業をやってきる先生を、ぼくもよく見ます、それは生徒は一生懸命聞いていて、その教科がおもしろくなって、受験については授業だけじゃ足りないから、自分はその教科がおもしろくなったから、あとは自分でこの参考書を使ってやろうという生徒がたくさんいるわけです。そこがすごく大事なんじゃないかな。
樋渡 高校紛争で教師が目覚め緊張したものの、60年代以来自主編成運動でつくりあげてきたものが、受験競争の激化のなかで崩れ去ろうとしている状況は、ないと言えないわけですね。
去年国民教育研究所がやった「中・高校生の学習と生活、進路選択に関する基本調査」を見ると、「学校生活の充実のためにもっと力を入れたいこと」という質問にたいして 「友だちとの付き合い」が高校生で四八%、「授業や勉強」 が三二%です。そのほか「とくにない」が九・九%、「学校行事」が二一・八%ですから、学校生活は授業で充実させたいと考えてはいます。
三戸 状況はどうあれ、授業で勝負をすることで高校生は学校生活に希望をもっていく、そういう基礎が高校生にある。
(理性と自由と)
制度改革というのはすごく大事だけど、これは、絶えず理性的に教育内容を追求して、生徒にたいして情熱をもってぶつかっていく教師がたくさんいて、しかもその人たちが職場で自由に疑問を出し、お互いに討議していける民主的な戦場づくりをやっていかないとでしないですね。
最近残念なことに、自分の権利はやたら主張するけど生徒の権利は簡単に奪っちゃう教師が、目に見えてふえてきているでしょう。これこそ教育臨調でものすごく攻撃される、われわれのほうの弱点ですね。
日教組を一方的に悪く言う傾向が最近地域にもずいぶんあるけど、われわれのほうも言われるだけの弱点をもっているんだよ。
そういう人は、これだけ押えられているんだから余計なことはしたくない、学校からも早く帰っちゃおう、世の中を変えなきゃしょうがないんだから、と言う。その類いの人間がふえていったら、世の中は変わるどころか、ますます悪くなっていくだろう。ここのところを教師がきちんと押えていかないといけないんじゃないかという感じがしますね。
それから、これだけ厳しい情勢になっていると息抜きが必要でしょう。教員が窒息しないように、ときには一緒に酒飲んでうさを晴らすとか、みんなの気分がゆったりするようなことを職場のなかで考えていく人がいないといけないんじゃないかな。みんなが深刻になっちゃうと病人が出るばかりだよ。
樋渡 そうです。発狂します。死人も出るでしょうね。
三戸 そのへんも考えなきゃいけない。教師に明るさがなくなったら、生徒は救われないよ。自殺するんじゃないかというような顔をして教室へ入ってこられたんじゃ、生徒はたまったものじゃない。
樋渡 教師に政治的・市民的自由なくしてなんの生徒の市民的自由だということにもなってくる。勤評以来生徒の自治活動の停滞に拍車がかかったという話が出ました、自分たちの市民的自由を守ることと生徒の教育条件を守るのは、一体のことです。
お話で気がついたんですが、東京で、高校三原則が完全な形で実施されたことは一度もない、それどころかどんどん歪められてきた。しかも学校規模は一挙に巨大化している。必要なのは、高校三原則という戦後教育の原点へ戻ることです。
米軍基地のアメリカン・スクールでは日本政府の費用で、以前はクラス定員三〇名だったのを二五名に減らしている。ところが都立高校では四八名へ増やしている。教師の笑顔が消えるわけです。少人数であれば解決できる問題は多い。 (1985・5・19)
追記
生徒たちの自治が活発な時期、教師は生徒を放任して自治指導を放棄していたのではないかと三戸先生が発言している。重要な指摘だと思う。だが、当時の教師たちの多くは、戦前戦中の教育を受けている。彼らにとって自治指導は簡単ではないし、実態としては、指導が介入となっている。60年安保の時、生徒たちがデモに参加しようとするのを、署名活動に止めようと考えたりしている。放任は放って任せると書く。何を任せたのか、問うべきだと思う。
生徒自治会連合に職員会議が圧力を掛け、解体を促したのが「放任」と「指導」の内容ではないか。正しく放任しきっているとはとても言えたものではない。当時教師たちは、マル民という符号で活動的生徒を嫌悪していた。僕は生徒としてその言葉を方々で聞いた。僕が教師となった1970年代初めも、その言葉は職員会議で飛び交っていた。言葉の主は敗戦直後の混乱に乗じて教員になった人たちで、その言葉を強く戒めるのも同じ世代の教師であった。
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