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1941年5月31日の御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」には、こう書いてある。
「マレー・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベスは、大日本帝国の領土とし、重要資源の供給源として、その開発と民心の把握につとめる。・・・これら地域を帝国領土とする方針は、当分、公表しない」植民地化の意図は最初から明白であった。にも関わらず、知識人までが、八紘一宇的虚無にいとも簡単に幻惑された。おかげて、若者たちはどこにもない目標へ向かった。
大戦後も戦地に残り独立戦争に参加した残留日本兵は各地にいた。例えば小野盛氏はインドネシア独立戦争に参加して現地名もある。彼は94まで生きてインドネシアで死んだが、日本政府は「脱走兵」と見做し続けた。軍人恩給も支給していない。
1943年、渡部一夫も『月に吠える狼』という短文を書いて、戦地に向かう教え子を、互いに「にこにこ笑って」戦争目的を疑いもせず送別したことを書いている。
ありもしないことを信じ、事実のように言い張り、あった事をなかったと言い通す。それが権力だと、支配被支配双方が思い込んでいる。
彼の目に写るものが変化していく。45年の『敗戦日記』にこんな観察が記されている。この時、彼は東大仏文助教授。
「有楽町のビルの鎧戸が爆風でへこんでいた。二人の男が「これは爆風だ!」と言ったら、憲兵に捕えられた。曰く「お前はほんとうにそれを見たか?」「いえ、でもこれは爆風です」「見ないのにどうしてそう言える。流言飛語だ」」7月23日
こうしたことは、戦場でも大本営でも日常生活でもありふれていた。学校の授業でも教師は「正直」の徳目を言いながら「ありもしないことを事実のように言いはり、あった事をなかったと言い通」し、小中学校では少しでも反抗すればビンタが飛んだ 。
「・・・民衆個人の無定見、形式主義万能。コレノ修正ノ為日本主義生レタ。オソロシイ反動」 『敗戦日記』6月20日「日本ズゴイ」「クールジャパン」の源流を、渡辺一夫は冷静に分析していた。
Wカップ騒動は、疑いもなく「民衆個人の無定見、形式主義万能」から生まれている。覚醒剤患者のように興奮しながら、辺野古、ガザのパレスチナ人虐殺、進まぬ災害復興、悪化する労働と福祉・・・の現実を遠い世界の他人ごとのようにしか感じられなくなるのだ。カジノに関する安部とトランプの会食で何が話されたかも知らないし、会食の事実さえ「ニッポンゴール」の歓声にかき消されるのだ。「オソロシイ反動」である。嫌になるのは、戦中からこの「無定見、形式主義万能」が続いていることだ。
渡辺一夫は絶望しながらも日記に書き付けている。
「偉大なロマン・ロラン。今こそあなたの存在が必要なのだ。 「戦いのさなかにあって、人間同士の平和を飽くまで守り抜こうとする者は、その信条ゆえに自らの安息や名声、さらには友情すら危くしていることを承知している。いったい、そのために何一つ危険を冒さぬような信念に、何の価値があろうか・・・」『動乱の上に立ちて』」渡辺一夫『敗戦日記』は8月18日で終わる。8月18日の書き出しは 「母国語で、思ったことを何か書く喜び。始めよう」そして「この日記はこれで終わることにする」で閉じられている。だが彼の鋭さは、戦後の記述にある。
偽日記○月○日(渡辺一夫は、戦後のことを思い出しながら日記風に書いたものをこう呼んでいる。文中のカーペーは、ドイツ語でKP即ち共産党を指している。ドイツ語のこんな使い方が流行った時期がある)
「カーペー系統の雑誌新聞を見ると、文芸欄などで、しばしばアプレ・ゲール派や方舟派やマチネ・ポエチック派や、その他いわゆるモデルニズムの諸流派の人々を罵倒する文章を見る。
これは面白くない結果になるかもしれない。目下のところ、カーペー派及びモデルニズム派両ほうの共通の敵があるわけで、しかも、その敵は、案外なところにうようよしている。こういう敵に対して、カーペー派はモデルニズム派とともに当らねはなるまい。さもなくば、まずモデルニズム派の人々は、叩きのめされて、引退逃避し始めるかもしれない。
これらの人々は、カーペー派の主張に百パーセント同意しないでも、理解もあるし、いわゆる同伴者的な役割を果たす人々である。こういう人々を失うことは、カーペーにとって重大な損失となるであろう。現在見られるような方向を辿ると、モデルニズム派の人々は、引退逃避するばかりか、いつのまにか、その敵の側へさまよいこむことになるかもしれない。
僕は、カーペーの主張や態度を全部は肯定できない。ただ、コミュニズムというものも我々の世界を人間的にするために寄与してくれるものを持っていることだけは感じている。しかし、カーペーは、今のままだと墓穴を掘ることになるだろう」
志賀直哉が、中野重治の評論「安倍さんの『さん』」(1946)に抗議して新日本文学会を退会したことと同根の問題提起である。渡辺一夫は白樺派との付き合いもあった。
日本の正統派左翼は統一戦線に対して、「綱領」がなければ野合に過ぎないと、永く頑なだった。
「墓穴を掘る」どころか墓穴に付き落とされかけて漸く「統一」行動や「連携」の意義に気付いた。渡辺一夫が「偽日記」を書いたのは、1948年のことだ。
ファシズムに抗した自由主義者の歴史を視る目は、E・M・フォスターに限らず射程が長く澄んでいる。
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