政治は向こうからやってくる |
「作家の仕事は、自己のなかに内在化された世界の全体(特殊性)を、ふたたび外在化しようとする(普遍性)ことである。すなわち作家の場合には、仕事の性質そのものが、外部と内部、普遍性と特殊性の弁証法的緊張関係の自覚であり、したがって作家は必然的に「知識人」であるほかない。 そういう「作家=知識人」を、サルトルは「自己に責任を負う」(engager)作家とよび、そうでない作家を、すべて、娯楽作家か、逃避的作家とする。「世界の全体」とは、もちろんたんに政治的な世界ではない。しかし政治と無関係の世界ではない。ことに、政治的状況が世界の全体の破滅をも導きかねない今日では、なおさらそうである」 加藤周一『サルトルの知識人論』作家を教師に置き換えてもいい。
「教師の場合には、仕事の性質そのものが、外部と内部、普遍性と特殊性の弁証法的緊張関係の自覚であり、したがって教師は必然的に「知識人」であるほかない」。 教師が、教材を得て時間をかけて一旦内在化した世界を、教室に向かって外在化する。それが授業である。そこに生まれる緊張関係を自覚するとき、我々は生徒たちとの関係と共に、世界との関係を知ることが出来るのだ。それが「自己に責任を負う」知識人としての教師である。
権力が、教師と政治を躍起になって切り離そうとしても、生徒との関係が知的緊張に満ちている限り「政治」と無縁と言うことはあり得ない。仮に、教委や管理職に迫られて、政治から切り離された授業がやれたとすれば、そのこと自体が「政治」的事件に他ならない。「自己に責任を負」わない教師をサルトルならなんと呼ぶか。過労死に直面する日本の教師に相応しい言葉が見つからない。
教師が草の根インテリゲンチャと呼ばれていたのは、もう50年以上も前のことである。僕の記憶では、確かにあの時期までは、教師は社会的役割を期待されそれに応えていた。
「政治」はこちらから近づかなければ、向こうから追ってくる何ものかである。
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