韓国や中国の若者の賃金が日本のそれに迫り 追い越しそうな事実も我々は見たくないのだ。 |
僕は長男以外はどうなるのだ、見捨てるのかと思った。教師は、次男三男は町に出て丁稚になったり、お寺の小僧になったり、他の家の養子になったのだと言った。ますます中学生は肯いた。
しかし僕は、「シャボン玉飛んだ」が間引きされた子どもを哀しく歌ったものだと本で読んでいたから、納得できなかった。年貢の維持が絶対の前提になっていた。予め見捨てられたのだ。
江戸時代、日本の農業は「農芸」と言うに相応しい技術的発展をみせた。特に稲作技術の進歩は目覚ましかったが、それは、特定の時期の労働を増加させた。田起し、田植え、草取り、収穫はむちゃくちゃに忙しい。どうしても臨時の季節労働に頼る。村の中や周辺に臨時の働き手が住み着く。彼らは水呑み百姓より劣悪な労働条件を押し付けられて、農繁期以外は乞食や出稼ぎをせざるを得ない。こうして被差別部落が、農村周辺に新たに成立したのである。生産の上昇が差別を産むのである。
普段から百姓は忙しい、だから農繁期にはどうしても人手を増やさねばならぬ」という思考は正常だろうか。
農繁期の最も忙しい時期の農作業を家族だけで行えるよう、経営面積を減らすことも出来る。農繁期以外は、百姓自身が副業に精を出せるからなんとか喰って行けるだろう。経営面積を減らせるのなら、長男以外を追い出す必要もない。
江戸時代の農村に「越後者」と呼ばれる農民が住み着いて集落を作った地域がある。例えば茨城。これらの地域には、間引きの習慣があった。いつもギリギリの家族で生活するから、飢饉がおこれば、引き受け手のない田畑がでる。年貢は村請だから、引き受け手のない田畑が増えれば、本百姓の負担は増える。しかし新たに田畑を引き受ける労働の余裕もない。 越後は浄土真宗の村が多く、間引きをしないので子どもが多かった。彼らが常陸に流れ着いて、村の危機を救った。しかし、新百姓という呼称が新たな差別として残った。共同体の危機を救った者たちまでも差別するおぞましい残虐性、醜さ。それが絶えることなく残り続け進化する仕組みを我々は持っている。病巣・病原と言ってもいい。
僕は、田を分けなかった者が「たわけ者」だと思う。たわけ者と言う言葉を作ったのは、百姓ではあるまい。幼小から農作業を手伝い成長した我が子を、見知らぬ土地に出す親があるものか。結局江戸300年、人口は停滞したのだ。田を分けても、結局何らかの形で経営面積も生活も維持出来た筈だし、新田開発によって豊かに発展出来る根拠はあった。
企業規模拡大を絶対条件とするから、より低い賃金、より長くきつい労働が必要と思わされてしまう。おかげで非正規労働は法の網を掻い潜り続けて多様化した。今や彼らの実態は恰も現代の被差別部落の様相を呈している。ただ目に見える集落も特定の職種もない。見えないものを見る「学力」を禁じているからだ。
しかし結果は明白だ。日本を除くOECD諸国の賃金は上がり続けているのに。法人税は高くないのだ、フランスの半分であるのに。働き方も生き方も奴隷化してゆくのだ。AKBやWカップで誤魔化せてしまうのだ。
追記 「トヨタ自動車の3月期決算を見てみたら、子会社も含めて連結内部留保は約20兆円。毎日1千万円ずつ使っていくとする。使い切るのに5480年もかかる。縄文時代ぐらいから使い始めて、ようやく最近使い終わる」これは共産党の小池小池晃代議士が川崎の演説会での発言。ほかの企業の内部留保も含めれば優に300兆円を突破している。
それでも、日本の法人税は世界一高いというデマを財界も政府も流布して、消費税増税を画策している。
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