「啐啄の機」

   啐啄の機、啐啄同時ともいう。
 
 工業高校で時間割が急に繰り上がった時のこと。僕が教室に入るや、前列の一人が鳩が豆鉄砲玉喰らったような顔して
 「先生、ちょっと待ってて、一生のお願いだから」と、駆けだしていく。どうしたんだと言うと
 「すぐわかるよ」と教室に残った生徒たちが笑っている。しばらくすると、数人が息をきらして教室に飛び込み、土下座する。
 「驚いちゃった、勘弁してください、先生の授業になるとは知らなかったから麻雀に行ってました。てっきり国語だと思ってました。授業受けさせてください、何でもします」 驚いたのはこっちだ。僕は当時出欠をとってなかった。
 「馬鹿だな、黙っててもいいこともあるんだぞ」席に戻れと言うと、正座のまま
 「ここにいます」と神妙な顔をする。
 「戻っていいよ、そんなことされては僕が困る、戻って来ただけで僕は嬉しいんだ」と席に戻した。1980年代初めのことだった。

 咄嗟に授業の中身を変えて、「授業は義務じゃない、権利だ。仕事も同じ。・・・」と話し始めた。
 この事件の意味を当時は深く考えなかったが、今になって大切なことを含んでいたと思う。それに気づくことが出来ず、生徒がわざわざ帰ってきことだけに気を採られた。
 絶妙のタイミングで、学ぶ権利と働く権利について授業できたことをもっと深く考えるべきだった。何時巡って来るか判らない絶好の機会のために準備だけはしておく。何についてこうしたことが起きるか予想できないから、無駄に新鮮に蓄えておく。社会科の範疇に無いこともいくらでもある、積分や微分であったり、時にはアフリカの詩であることもある。教師が学ぶことが好きでなければならないとは、こういうことまで含んでいる。

  啐と啄が時間的に離れることもある。記憶の中に沈み込んだ筈の知識が、突然思い起こされ思いがけない行動を促す。これも 啐啄の機と言うべきで、啐啄同時は内的な成熟に対してどこか機械的で無神経なところがある。例え一年、十年離れていてもそれが「同時」ということもあり得る。





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