文人は調子を合わせることのできないものでもある |
ただ、文人は調子を合わせるべきではないと言いたいだけである。そして、文人は調子を合わせることのできないものでもある。調子を合せることのできるのは、とりもち役だけだ。しかしまた、この調子を合わせないということは、決して廻避することではない。ただ是とする所を歌い、愛する所を頒え、そして非とする所、憎む所のものにかかり合わない。彼は是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃し、愛する所のものを熱烈に抱擁するのと同じように、憎む所のものを更に熱烈に抱擁しなければならない。あたかもヘラクレスが巨人アンタイオスを、その肋骨をへし折るために、かたく抱きしめたように。 魯迅「二たび「文人相軽んず」を論ず」
文人も教師も、人に指針を示すことを期待される。指針が情勢や政権を忖度していては、指針としての価値はない。文人が「調子を合わせるべきではない」なら、教師はもっとそうであり、そもそも「調子を合わせることのできないものでもある」と言うべきである。なぜなら文人が大人を相手にするのに対して、教師は少年を教え導く事で食っているからだ。指導要領が変わるたびに、調子を合わせ注釈書を読まずにいられないのは、少年たちを導くための自前の羅針盤がないと言うことだ。
そんな者は、ただの伝声管になればいい。伝声管には自分の主張も意見も要らない、ただ言われたとおりに伝えればいい。ある校長は、「私は行政の末端です」と胸を張った。僕は聞き間違えかと思った。「私は行政の末端です」といい、打ち萎れるなら筋が通る。続けて「上から、授業を禁じられている」と言ったのには文字通り開いた口が閉まらなかった。それ以前にも似た事を言う管理職はいたが、恥ずかしげに言ったものだ。彼は堂々と胸を張ったのである。
かつて裁判官は、裁判所長をボーイ長と呼び蔑んでいた。裁判に専念できず雑務に翻弄される立場は、まさにホテルや船のボーイ長。政権に忖度して所長になる裁判官を誰が尊敬するか。裁判官は法の番人であって、政権の「とりもち役」ではない。
若い時には、授業や生徒との関わりに夢を描いていた教師も、夢破れて授業は行き詰まり生徒や保護者との関係も閉塞する。事務に逃げ込み校長と呼ばれるのは、彼には救いなのかも知れない。
とりもち役になることが自慢すべき事に当たるという神経は、「中央との太いパイプ役」と自分を売り込む地方議員にはもともとあった。しかし恥ずかしい生き方である。学校では校長が退職するたびに、○○先生を囲む会が作られる。これは、教委など業界への「とりもち役」を退職校長に期待しているからである。親戚や同窓生には顔が立ち、時期が来れば勲章が待っているのだ。
少年たちの成長のために「是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃」しなければ、生きた教師ではない、なんのとりえもない物質=伝声管に過ぎない。「立ってください」「口を開けなさい」「これは職務命令です」と言うのを誇らしく感じる人間がいるのだと言うことを知って情けなくなった。伝声管に過ぎないのに、その声の主の代理人になった気の幼稚な夢想家である。江戸時代にも、将軍や藩主の書き付けに頭を下げさせ「上意」と叫ぶ者があった。それを真似て得意になれる神経を嗤う。
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