悪菓?は良菓?を駆逐する

  「企業開発のゲーム」を授業で使う若い教師が増えたという話を聞いた。企業や団体が「開発」する教材やゲームを知って不快になったのは、1970年代終わり。ベトナム戦争に敗北した米国が、あからさまな軍事的侵略にかえて「開発」名目の新たな侵略に動き始めたころだ。

 それで思い出したことがある。東京に転校した1950年代の遅い時期。友達の家でおやつを出された。鹿児島の田舎では、おやつはどこでも「手作り」だった。つくるのに数日を要する手のこんだものから、茹でたり冷やしたりして切っただけのものまで、人手を経ていた。人手をかけることが文字通り愛情であった。貧乏だったが子どもと親の間には、安心と笑顔があった。

 東京の友達の家で見たのは、今スーパーで売られる「袋菓子」だった。企業の開発した画一的「袋菓子」が、家庭の個性的手作り菓子を放逐していた。まさに値札付きの悪菓が値の付けられない良菓を駆逐した。

 東京は豊かなのか、一体誰が豊かなのか、少なくとも「子ども」ではなかった。親の労働が子どもに向けられない。貧乏から抜け出すつもりの雇われ仕事が企業に富を蓄積すれば、貧しくなる者のあることに自治「行政」は気付かねばならない。それが共同体だ。一人では不可能なことを、みんなで補い合う。
 大戦で疲弊しきった英国社会揺り籠から墓場まで」を合言葉に、互いに支え合うビバリッジ計画で乗り切った。

 福祉も教育も医療さえ「営利」の対象にしたのが戦後日本だった。お陰で日本の疲弊した社会は、「高度成長」の幻想と再軍備に向けて解体してしまった。


 果物や農作物の土作りや種まきするとき、収穫物のイメージがある。草取り、収穫を経て食べるまでをみることが出来れば楽しい。出荷し人に食べて貰う場面を知る。その全過程が、自分の労働の中に常にあれば充実する。収穫の部分的肉体労働だけがあるとき、そこに収穫の喜びを見いだすことは出来ない、労働は苦役となる。全過程が自分の労働にあるとき喜びとなる。

 これを黒井千次は「労働の人格化」と呼び、Marxは次のように表現した。  

  「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大とぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。・・・さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。国民経済的状態(資本主義)の中では、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、(対象の)獲得が疎外として、外化として現われる。・・・すなわち、労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。・・・彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる。・・・彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる」   『経済学・哲学草稿』(岩波文庫 P.86-90)


 親と子の間の愛情の「全過程が自分の労働にあるとき喜びとなる」ように、教師と生徒たちとの間には「信頼」が不可欠。その「過程が自分の労働」から奪われる度に教育は「苦役」に転化する。生徒と教師の信頼は、授業を通してのみ形成される。何故なら行事や式は、組織に対して向かい合うにすぎないからだ。偏差値教育も、数値に縛り付け組織に隷従させるものであり、教師と生徒の個性が火花を散らす多様性に満ちた授業とは相容れない。

 企業の競争力も大学ランキングも各種学力も、OECD諸国の最下位にあえぐのも、一人一人の個性的能力を蔑ろにした事の当然の帰結である。良貨は食いつぶされ、悪貨にしがみ付いている。

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