知り合いの高校教師に、最近増加著しいコロナ関係の横文字を高校生がどの程度認知しているか聞いてもらった。
「 ・・・生徒に聴いたら、ほとんど知りませんでした。そもそもニュースを見ないのですが、それにしても。私が言うと、反応する生徒もいるのですけれど。トリアージは、全滅で、聴いたことがない生徒がほとんどでした。・・・」
業界の専門家たちは、どうして日常の易しい言葉を使おうとしないのか。自分を高みに置きたいのか。何かを隠そうとしているのか。自分の無能がバレるのが恐いか。恐れねばならぬのは伝えたい事が皆に伝わらないことではないのか。この世は専門家ばかりで構成されてはいない。
仮に若者が現在進行中の事態の本質を知りたくても、初めて耳にする専門家好みの「横文字」だらけではどうにもならない。年寄りが意味を掴みかねている間に、ことが進行して手遅れになることを恐れねばならない。 「トリアージ」「オーバーシュート」「ソーシャルディスタンス」とニュースが伝えても、すぐ忘れる。たとえ外国語だと見当がついても何語だかわからない。辞書がないから諦めてしまう。こうして日常の言語世界に、理解不能の穴が次々に空く。名刺だけではない、形容詞や動詞まで横文が横行する。ネット漬けの業界人に「バズる」と突然言われた子どもや老人は困る。意味が分からないままでは対話は成立しない。誤解したまま放置されれば困った事態を生じる。
学校は官庁経由の横文字に無防備。「アジェンダ」「ペンディング」「ウィン・ウィン」「ワークショップ」・・・などは学校でも頻繁に様々な場面で使われるが、保護者や生徒に正しくに伝わっているとは思えない。狭い世界や同じ世代間で通じても、言葉の最も重要な機能は、世代や立場をこえて「文化を共有」することの筈。
僅かな「高み」に自分だけを置けば得意面出来るが、言葉を共有できないのでは元も子もない。偏差値を高く揃えたり、メダルで校長室を飾る暇があったら、教科書や教材の横文字や校内の日常を再検討する必要がある。既に危険な崖っぷちに我々はいる。
言葉を共有し互いに理解し批判し合う関係が社会をつくることを知らねばならない。対話の要らない旅先では「みんな温かい優しい人」だが、利害を調整して「公」を形成するためには、言葉を共有して時には喧嘩もしなければならない。教室は、地域社会は、自治体は、国家は旅先ではない。「和を以て尊しとなす」が上から権力的に押し付けられる社会は、常に弱者が我慢を強いられ言葉も文字も奪われている。対等に喧嘩可能な言葉を通して「公」が形成される社会が民主制である。
言葉の共有だけが平和交渉を可能にする |
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