勝手に「授業を抜け出す」、授業中「歩き回る」、消しゴムを刻んて前の子に投げる。協調性がない。「小1プロブレム」のはしりと言われかねない要素を抱えていた僕だが、一度も咎められたことはない。
「爺ちゃん、日本はもう戦争せんとな」
「絶対戦争はせんと決めたんじゃ。戦争に良かこた何も無か」
朝食前、筑港と町を隔てる権現島に登りながら、祖父はそう繰り返した。日の長い夏には夕食後の散歩もこの山だった。
庭や露地で遊べば、祖母たちが「こん子たちゃもう戦争に行かんでん良かとじゃな」と繰り返していた。
海軍のたたき上げ将校で兵学校教官だった祖父は、軍装や勲章の類をきれいさっぱり捨てていた。国防婦人会の先頭に立ち竹槍を構えていた大叔母は、家族の全てを戦争で失い「バカの考え休むに似たり」が口癖になっていた。
町の商店街で大売出しの拡声器から軍歌や軍艦マーチが流れると、耳を押さえながら「好かーん」と足早に駆け抜けていた。お陰で孫は文字や数字を覚える前から戦争を憎むようになった。
勉強を禁じられた僕は登校が嬉しく前の晩からそわそわして一時間も前にうちを飛び出した。「急がんでん学校は逃げんがね」と母は笑っていた。学校に着くまでにやることはいっぱいあった。誰もいない学校に着いてからも、花や昆虫を見つけるのに忙しかった。
入学式と同時に授業が始まると信じていた僕は、式がだらだらと続き記念写真撮影で待たされるのに不機嫌になった。次の日こそ朝から勉強出来ると思って張り切っていたが、クラスごとに学校の中をぐるぐる回る。順番が来るまで教室で待たされる。席につかず立ち歩いたり消しゴムを刻んで投げた。
ようやく授業が始まる、週一回「集団体育」の時間があった。右向け右、二列縦隊、前へ進め、全隊止まれなどばかりを、怒鳴られながら繰り返すことに嫌気がさして僕はうちに帰った。
「どげんしたとね」、たまたまうちに来ていた大叔母と母は驚いた。僕は「「集団体育」が嫌だ、あれは勉強じゃない・・・」と訴えた。大叔母は「そんた戦争の練習じゃ」と叫ぶと下駄で学校に走った。その後僕の記憶に「集団体育」の記憶はない。鹿児島の故郷に転校してからも「集団体育」があり、憤然と早退した僕の訴えに「行かんでん良か」と血相を変えて学校に大叔母は走った。
プロブレムは生徒や家庭にばかりあるのではない。第一わざわざ横文字を使う神経自体が問題。
思い起こせば、学校で「問題」が起れば大叔母は「こんたいかん」と走った。その声を聞く柔軟さがこの頃の学校にはあった。そして教師は平和に敏感だった。
前川喜平元文科次官が、「運動会の入場行進の「全たい進め」や「全たい止まれ」という号令の「全たい」は「全体」ではなく「全隊」である」と証言している。文科省はその流れを総括しないまま今日に至っている。「組み体操」や「体罰」を巡る愚かな醜聞は文科省の不作為の成果と言ってよい。そればかりではない。
高度成長の直前、日本の農村は崩壊、悲惨な様を曝しはじめた時、田舎の学究でも弁当に焼いた魚を新聞でくるんだり何も持たずに校庭でうな垂れる子が増えた。帰宅して話すと大叔母は「ぐらしかー、何を植えてん売れんごつなったとじゃ」とどこかに走った。数日して担任がアルミのドカ弁を幾つも抱え、弁当のない子たちに配るようになった。六学年全クラス分は大変な作業だった筈だ、一人では手に負えない。ひと月経つか経たぬうちに給食が始まった。町議会議長は父の叔父だったし、役場のあちこちに知り合いもいた。大叔母は根回しが巧だった。祭りが近づけば、庭は大叔母に知恵を借りる若者の溜まり場になった。町中の情報が集まり、動きはす早かった。
大叔母は「公選制教育委員」経験者だったかもしれない。初め町は、大叔母を国防婦人会の活動家の経歴に目を付け無害な教育委員として立候補させたのだろうが、実際の動きは生徒や父兄の実情を行政に反映させるものだった。公選制教育委員会や公選制公安委員会が瞬く間に潰されたのは、この住民との密着行動を行政が恐れていたからに違いない。
大叔母の口癖「バカの考え休むに似たり」は、行動する草の根民主主義の標語だった。帝大卒や士官学校・兵学校出の浅慮が、自国民とアジア民衆を苦難のどん底に叩き込んだ経験を祖父母も大叔母も決して忘れなかった。だから彼らは、孫に勉強を禁じ、冗談で「東大に入るよ」と言えば慌てたのだ。
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