「勤評」は子供にどう見えたか

 

 熊本市の成績票は、教科の獲得目標ごとに「がんばりましょう」、「できました」、「よくできました」の三段階の欄に赤い○がつけられていた。初めて成績表を貰った時説明はあったが、よくは分からなかった。下校しながらみんなで考えたがやっぱり分からない。うちに帰って「どれが一番よかとね」と聞いたが、母はもとが小学校教員だったせいか、担任と同じ言い方をした。
 鹿児島に転校すると五段階評価。「1」と「5」のどっちがいいのかと周りに聞くと、笑いながらてんでバラバラに言う。成績票を祖母にみせながら「成績が上がったから褒美がもらえる」と友達が言ってたことを話すと、「褒美のために勉強しちゃいかん、成績はどげんでんよかよー」と手作りのおやつを出してくれた。

 だから成績で一喜一憂する必要は殆どなかった。殆どと言うのは、一度だけあったからだ。

 あれは四年生になった1958年の春だった。その日担任は機嫌が悪かった。社会科の点数で学級丸ごと叱られた。僕は名指しで「一番だが76点、一体どうしたんだ」と雷が落ちた。窓辺の学校菜園に茂った豆の光景と「76点」をいまだに鮮明に覚えている。

 帰るなり「今日は先生に叱られた」と事情を話して答案を見せた。暫く沈黙が続いたが祖母が「わっこが76点じゃ、教え方が間違っちょる」と断言。大叔母はものも言わずに下駄をつっかけた。こんな時の大叔母のコースは決まっていた。何人かの同級生のうちを回った後学校に走るのだった。


    次の日担任は「明日スケッチブックをもって来い」と言い、そのあくる日の三時間目「今日は勉強止めよう。築港で絵を描こう。弁当持って」こっそり学校を抜け出した。しかし50人がぞろぞろでバレないわけはない。わざわざ校長室の前を抜き足忍び足で通った。

 歩いて5分の港のあちこちに散らばって、先ず大方は早弁した。そして絵を描いた。担任は堤防の先にある灯台の陰で寝そべってしまった。こんな時僕はみんなに絵の下書きをせがまれる。構図を取るのだ。サッサと済ませうちに戻った。港周辺の子は大抵そうした。不思議なことに、僕が帰るのを予想していたように支度が整っていた。知っていたのだ。

 こんな事が何回か続いた。これは大叔母が関わったに違いないと気付いたのは、彼女が他界した後だった。彼女は「勤評」が、日本中の教室を荒廃させつつあるのを新聞で掴んでいた筈。それが故郷でも始まったのだと、僕の報告を通して知った。先ず校長に釘を刺し、担任には慰めの言葉とともに「築港で子どもと遊んで昼寝でもして全部忘れんね」とでも言ったはずだ。 公選制教委は廃止されていたが、経験は蓄積され続けた。 

 

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