「国家の犯罪行為に対する責任という点では、主権者たる市民のほうが独裁体制下の臣民より重い。」M.マイヤー『彼らは自由だと思っていた』未来社
第二次上海事変で砲兵将校として軍艦勤務した祖父は陸戦隊には加わらなかったが、「国家の犯罪行為」としての謀略・殺害を目撃している。この頃の祖父の母宛の絵葉書には苦力や屋台の職人が色彩豊かに描かれたが、軍人や軍艦は描かれていない。
40 歳そこそこで祖父は退役、表向きは病気が理由だった。後日叔父は中学生になった僕をこっそり呼び出し、退役を巡って海軍内で揉めたらしいことを耳打ちした。詮索しなかったのが悔やまれる。
交戦時には互いの攻撃をかわして敵艦も自艦も複雑に移動する。砲術の難しさは陸戦のそれとは比較にならない。しかも咄嗟の判断で計算・作戦立案・命令指揮する必要がある。
三角関数を組込んだ計算尺を祖父は大切にしていた。弾道計算に不可欠の道具。
操船術と砲術、祖父の判断に全乗組員の命が掛かっていた。何より実戦で磨き上げた経験がものを言う。そうでなければ訓練を重ねた水兵の命も軍艦も失う。ところが日本の軍隊では実力は滅多に考慮されない。兵学校で皇族も高級将校子弟が規律を破り現を抜かしても「国体」擁護を絶叫しさえすれば、叩き上げ将校をアッと言う間に飛び越し昇進した。それが皇軍の輝ける規律であった。彼らには、敵に勝つことより皇軍の秩序が優先していた。酒を飲まない祖父は苦笑いしながら、皇族や高級将校子弟のやんちゃぶりを話していたと言う。
英国皇太子戴冠式にへの航海に参加しているから、祖父は彼の国では戦功次第で序列を飛ばして昇進する例を見知っていたに違いない。
日本軍で国を守る事はできない、祖父は大胆にもそう判断した。それ故、旧制中学で虚勢を張る若い教師や配属将校たちを見る眼は冷めていた。
その厭戦姿勢は敗戦とともに平和志向に変わる。国防婦人会で竹槍訓練の先頭に立っていた大叔母も、「バカの考え休むに似たり」が口癖になった。
終戦直後の50年代始め、町議会議長長男の結婚式を祖父の家で挙行する珍事が起きた。町議会議長は運送業も兼ねる網元で、河口の絶好の位置に何百人も寝泊りできる大きな屋敷を構えていた。対して貧乏極まる祖父の家は、部屋も台所も家族だけで手一杯の詫び住まい。とりえは志布志湾が見渡せることだけだった。庭と露地に臨時の竈が拵えられ、近所や親戚も総動員され戦場のようになった。二部屋と廊下が全て開け放たれ、廊下の先に縁側が張り出された。居間も台所も庭もテーブルが並べられ配膳の支度にてんやわんや。行き場のない僕は、客間から聞こえる「高砂や~」を聞いていた。歌に合わせて舞ったのは祖母に違いない。祖父も祖母も三味線と舞を習い、バイオリンまで覚えていた。
農地解放の波に乗り、農民組合がつくられ勢力を増していたし、志布志機関区の国労も強大。デモは盛大だった。小さな僕もデモに引っ張りこまれた。厭戦気分を隠さなかった祖父が、平和な時代を象徴する存在と見られたのかも知れない。
結婚の宴は三日続いた。しかし暫くして祖父あっけなく急逝。祖母はショックで口が利けなくなり足腰も立たなくなってしまった。その間に日本は逆コースを転がり落ちてしまった。
大叔母は残された孫の平和な教育のために、文字通り身を粉にして奮闘し続けてくれたことになる。事あるごとに「うんだももしたん、こんたいかん」と下駄ばきで駆け出す姿を忘れられない。
いま都会の教師は幾重にも哀れだ。現場の反動化に呆れ早期退職しても、耕す畑はない。ローンは残り、恩給はないから再就職の派遣労働に明け暮れる。疲れ果て、老人ホームの空きを待つ間にウサギ小屋で息絶える。それだけは避けたいと教育の劣化にも我慢を重ねれば、日々に日々に教育の裁量の範囲は無くなる。
堪らないのは、自らが生徒に伝える価値を裏切る振舞いを生徒や父母の見守る「式」で強制される事だ。
「国家の犯罪行為に対する責任という点では、主権者たる市民のほうが独裁体制下の臣民より重い」。
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