『セールスマンの死』は他人事ではない

 「あのころは個性というものがにじみだしていましたよ。尊敬しあい、友情をかよわせ、感謝しあったもんですよ。ところがこのごろでは、そんなものはどこへきえてしまったのか、さばさばしたもんだ。友情をしめすこともないし、個性などというものには一文の値うちもありはしない
 アーサー・ミラー作『セールスマンの死』の主人公ウィリィ・ローマンの科白である。63歳の
彼は敏腕セールスマンであった。家も車も家具もいち早く手に入れ、子どもにも教育を施し順風満帆の人生の筈だった。だが何時までも若い筈
何時までも若い筈はない
はない。自身は老いぼれ、贔屓客も死亡する、売り上げは下がり始め、生活費も借金に頼るようになる。家庭内の問題も起きるし、車も住宅も家具もローン返済で首が回らない。ついに疲れ果てて自殺、その死亡保険金で家の借金が完済される。それを嘆く妻の独白で幕が降りる。

 プロスポーツplayerやオリンピック競技playerが、スポーツ業界肥大化のセールスマンに見える。金メダルや上位ランキングを請け負って、広告代理店経由の仕事で莫大な収入を約束される。スポーツのプロはメダルを囓りその数を誇り、碁や将棋のプロはタイトルの独占を目指す。その快進撃振りすなわち獲得賞金額に煽られて、子どもも親も夢を見る。地位は不安定で過労死しかねない会社員より、成果に応じて目に見えて増える収入と栄光を得るプロは、輝いて見える。それがマスメディアで盛んに流され中高生も、プロを目指す。小学生がプロ宣言する有様がニュースになる。
 若いうちやオリンピックまでは、過剰にちやほやされるだろう。プロplayerたちの豪勢な消費生活をTVは繰り返し報じるが、成功から置き去りにされた元playerがどう暮らしているのかは決して報じない。失業保険も退職金もない。労災も適用されない。ランキング一位のplayerの年収は太文字で大々的に紙面を飾るが、ランキング底辺playerの収入は話題にもならない。

 虚像に煽られて、競技はあらゆる分野を席巻しプロ化の波は止まるところがない。書道や俳句や漫画まで、甲子園の名を付して見世物になってしまった。TVや新聞の絶好の鴨である。これらは、一見我々の生活の自由と夢を拡大伸張しているように見える。好きなことで互いに競い合い、好きなことを一年中やって愉快に豊かに生活する。ピアニストやバイオリニストは、好きなことで世界を股に駆け巡り賞賛され最上の生活が待っている。お陰でスポーツも、今まで競技やプロ化とは無縁であった登山やロッククライミングまで中継される。

 僕は遠からず、教師のプロ化が始まると睨んで背筋を震わせていた。
学校は競争好きには堪らない誘惑に満ちている。掘っておいても、教師は競争をしたがる。プロ化で競争を仕込めば、暴走する。
  例えば特定大学合格者数を請け負い進路指導を指揮して、成功報奨を貪る専門家。生徒の問題行動を発見して退学に追い込み、学園に安寧をもたらすと称して賞金稼ぎをするプロ。入学志望者増加や偏差値上昇を企て暗躍する者もでる。・・・これらの報奨金や賞金は、学校が若者向け衣料品メーカーや飲料メーカーやスポーツ用品メーカーなどと契約し、広告を教師の背中や学校中の壁に貼り巡らせて調達する。学校自体あるいは教科や分掌毎の独立採算制も求められるかもしれない。校門脇にはコンビニやファストフード店が並び、プールやテニスコートはフィットネスクラブが運営するケースもありうる。5時以降や休日の校舎・利用は塾が入札で確保するかもしれない。定員割れが続く学校では、校舎自体が売却され、学校が売却した校舎を借りるようになるかもしれない。文科省は、こうして発生する業界の巣窟と化するだろう。もう今だってそうだ。
 実験だけ見せるプロ「先生」はすでにいる。おしゃべりを止めない強者を静かに授業に引き込むと請け合うプロも現れる。掃除指導のプロ、感動させる行事のプロ、マスゲームのプロ、組合解体を豪語して教師の奴隷化を売り込むプロ、民間教育団体を内側から崩壊させたり乗っ取ったりするプロ・・・これらのプロは、通常の授業は手抜きして専門に励む。
 こうして様々なプロ教師が、報酬や特権に釣られ個別に学校や教育行政当局と契約を交わし、雇用契約から外れる。学校からの労働基本権一掃、政権はそれを狙っている。学校運営そのものが営利企業に丸ごと委ねられる事態もありうる。国立大学行政法人化は、その大きなSTEPだった。公立保育園や幼稚園がどうなったかを考えれば絵空事ではない。

 現在都立高校で実施されている「公募制」人事は、プロ化の先導的試行と思えてならない。例えば進路指導担当者を欲しがっている高校に、若くやる気に満ちた教師が「私なら短期間に・・・してみせる」と売り込む。売り込んだ以上それ相応の成果を求められ、失敗すればアッという間もなく強制転勤させられるという制度である。校長側は、希望して来た以上という切り札で無理難題を押しつけることが出来る。校長自身が短期間に異動を命じられる憐れな存在だから、教員は更に短期の成果を校長から迫られるわけだ。生徒は更に短期間の目論みに踊らされるコマでしかない。
皆があのころは個性というものがにじみだしていましたよ」と呟く。
 失敗が露わになった頃、当該の校長は既に栄転していないのだ。なぜなら彼らは教育職ではなく、経費削減と人員整理のプロに過ぎないからだ。

 教員が都合のいい生徒ばかりを入学させることに腐心し続けるなら、校長が気に入りの教師だけを揃えるようになるのも尤もだと思う人は多くなる。

 年老いて授業にも部活にもエネルギーを注げなくなり、どこの学校にも使って貰えなくなったとき、『セールスマンの死』の主人公ウィリィ・ローマンと同じ悲劇が、近い未来の教師を待っている。人は、何時までも若いわけにはいかない。
 今なら「あのころは個性というものがにじみだしていましたよ。尊敬しあい、友情をかよわせ、感謝しあったもんですよ」と回想するのではなく、「今は・・・」と現在進行形に社会の仕組みを変えることが出来かもしれない。そのためには、何よりも入学時の差別的選抜を止めることだ。
 オリンピック騒ぎがどんな結末をもたらすのか、想像力のありったけを喧噪と閃光の中で冷静に動員する必要がある。この莫大な費用と辟易する程の宣伝と長い準備の裏に隠された意図を見抜こう。何しろ水道も戦争も刑務所も、我々の知らない間のアッと言う間に民営化してボロ儲けの種になったのだから。彼らはまともな政府のもとでは、終身刑になる程の恥知らずなのだ。


追記 スポーツをリクリエーションと呼んだ時期がある。労働が我々に強いる疎外から自己を回復する活動であった。その多くは商業化や競技化やプロ化の波にのまれてしまうか消滅してしまった。リクリエーションの花形だった草野球は跡形もない。俳句は自己表現して批評しあい、生活をリクリエートするものであった。しかし競技化した俳句は、主催者の視点からのランキングに左右されて「自己」表現ではなく忖度を競うものとなった。潮干狩りは、有料化され自由に楽しめなくなった。
 ハイキングは残るだろうか。 バードウォッチングはどうか。昆虫観察はどうか。花見、月見、雪見はどうか。海水浴は・・・

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