幸福は退屈である

凡庸さから逃れようとする時、人は権威に従属して自由から遠ざかる
   E・フロムは愛は技術であると言い、「運命的」出会いを絶対視する消費社会人を驚かせた。
 器用な人間は、良い職人にはなれない。短期間に技術をのみ込むことは出来るが、習熟する粘りに欠ける。不器用な職人の方が、失敗を繰り返しながら長い期間をかけて、根気よく労働対象と自分自身を見つめることが出来る。 器用な職人は、技術習得の素早さに慢心して、労働対象の特質や自分自身の癖に気付くことが出来ないのだ。長い修練期間は、退屈である。不器用な愛も変化に乏しく退屈である。消費社会はあらゆるものを「ファスト」化「イベント」化する。「運命的」出会いや思い出を商品化して、クリスマスやバレンタインデーなどで若者たちの不安を煽る。結婚生活自体すら「イベント」化する。

 「鶴の恩返し」には、前景としての鶴をいじめる子どもたちの場面がある。 子どもたちが優しければ、あるいは無関心であれば恩返し」は成り立たない。美しい物語には、先ず不幸が描かれる。アメリカンドリームには、セーフティネットの無い恐怖の貧困が欠かせない。

   だが、前景として「運命的」出会いや「イベント」化した儀式があれば、日常は耐えがたく退屈になる。退屈な日常を我慢させる為に「イベント」は、乱立し派手になる。日常は「イベント」とイベントの準備予行の谷間に追いやられる。ここには、個人の自発性の余地はない。 

 かつて僕はある雑誌で、興味深いessayを読んだ。30歳前後の高校同級生が久しぶりに酒を飲む。積もる話の末、一人がこう呟く。
 「・・・この頃、古文のA先生の授業を思い出すんだ」
 「お前もか、おれもだよ。高校の頃あんなに退屈な授業はなかった、だがまた聞きたいとしきりに思うよ」
 「だろう、A先生の淡々とした口調に今頃になって引き込まれてね。『古典文学大系』を買って読んでいるよ。脚注を利用すれば、楽しく読めてしまう。知らぬ間に学力はつくものだね」
  他日別の同級生と会った時、この話をするとこの友人も
 「実は僕もね、あの教科書をまた買ったよ。先生の名前も顔も10年以上も忘れていたのに、なぜかね、あの頃はうつらうつらしながら聞いていたのに、考えれば勿体ないことしたよ」

 流行の授業評価をやれば、A先生の評価は極めて低くなる。行政の思いつきなど、事柄の本質を見極めにはあまりにもあさはかなのだ。学ぶことの自発性が芽を出すには、長く静かな時間が必要なのが判る。
 A先生の淡々とした口調は、行事と「部活」の谷間にあって血気盛んな少年の意識の底で、学習に於ける退屈さとして沈殿してしまった。

 「鶴の恩返し」に似た話に「亀の恩返し」=浦島太郎がある。太郎は乙姫の連日の豪勢な接待攻めに、村の単調な生活を懐かしむようになる。こちらは初めから「恩返し」はばれている。ばれた「恩返し」は交換関係である。何時までも続くわけがない。その終わりは「玉手箱」に仕組まれていた。
 高校を出て念願の名門大学や一流企業に入る、それなりに注目を浴び羨ましがられ得意になる。だがあるとき、注目されているのは俺ではない、会社の株価だけではないか。自分自身は少しも成長していない、むしろ後退している。
 自分自身は平凡な日常の中にだけ生きていると思ったとき、A先生の単調な語りが意識の底から浮かび上がったのだ。
  鶴いじめや亀虐待が無ければ、与ひょうも太郎にも「恩返し」はない。物語には成らないが、こちらの凡庸さの方が尊い。
  オリンビックの金メダルもノーベル賞もない、世界遺産もない、外人観光客にも知られない、石油や貴金属などの地下資源もない、スターもいない退屈な争いのない平等な国、愛着を持つことが出来るのはそんな国だ。メダルや世界遺産などがあって誇りを感じるのは、メダルや遺産に惹かれているに過ぎないのだ。メダルや賞を有り難がる国や組織が、何の取り柄もない凡人を、「生産に貢献しない」と攻撃するのは初めから見えている筈。なのにいつの間にか、賞やメダル稼ぎに同調して熱くなっているのだ。
 両親や祖父母は子や孫が、入賞したり美人だったりするから愛しいのではない。失敗ばかりで何の取り柄もない愚鈍なのろまであっても、互いにかけがえのなさに満たされる、だから「愛は技術」である。
  親や祖父母は、元来子や孫に「恩返し」を期待いしない。「恩返し」は返してしまえば終わりである。子や孫の存在そのものに自発的喜びがあるのだ。

 僕が、中学の先には高校がありそのまた先に大学があると知ったのは、小学4年の時だった。学校帰りに従兄弟たちと一緒に遊んだり宿題をしている時に、中学生の従兄弟が
 「なおちゃんは、勉強が好っやねー。どこずい、行くとね」と聞く。僕がぽかんと口を開けていたら、高校と大学の話をして、一番いい大学は東京の「とーだい」だと教えてくれた。うちに帰って茶の間にいた祖母と大叔母を喜ばそうと、こういった。
 「おいは大きくなったら「とーだい」に行っど」すると二人とも血相を変えて
 「そげなことせんでんよか、今んままでよか・・・わっこが勉強が出来てん、出来んでんどっちでんよかとじゃ」と慌てた。祖母たちはいつも通信簿やテストを見ては喜んでいた、成績がいいのが嬉しいのだろうと思っていたのだがそうではない。
 「ビリでも、寝小便垂れてんよかとね」と尋ねると
 「よかよー」、「よかよー」と嬉しそうに応えたのだ。

 凡庸さから逃れようとする時、人は権威に従属して自由から遠ざかるのである。
 

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