日本の大学院生ができない発言をウクライナでは高校生がする

 ウクライナ原発を視察に行った友人(東北大学医学部臨床教授 岡山博)のblog
 「(ウクライナの)義務教育は6歳から16歳まで11年間。教育は幼稚園から大学、大学院まで無料。さらに奨学金がある。(※北風:旧ソ連圏各国はほとんどが同様。)教育程度は高い。日本の大学院生ができないようなしっかりした発言を高校生がする。「アメリカの一流大学から、優秀な学生を探しにウクライナに来る。そのようにしてアメリカに渡ったウクライナの科学者がすでに5人ノーベル賞をとっている。その時国籍はウクライナではなくアメリカになっている」と、今回訪問のリーダーであるプシュパラール先生が言っていた。今回高校生を含む多くの人と会話して、なるほどそうだろうと了解した

とある。「ここでは高校生が日本の大学院生並みの会話をする」。この一言に打ちのめされる。人類史的重さを感じるからである。ウクライナが特殊なのではない。日本の青年の状況が特殊なのだ。日本の高校生も、ウクライナの高校生と同じ賢明さを持った時期がある。それは敗戦直後の高校生から容易に推測出来る。聡明さと引き替えに日本の青少年が手に入れたのは、何なのか。
 石神井高校の卒業生からのmailが興味ぶかい。いま彼は私立女子校で国語を受け持っている。

                                            部活は生徒の労働か
  「(大学の)授業のつまらなさについては先生のおっしゃる通りで(一分間の)深い話的な側面が強いと思います。それは言い換えれば、現実問題に対する意識と結び付かない、酷く奇を衒ったようなものになりがちです。これは自分への戒めでもあるのですが、やはり体験にむすびついたり、行動に移せないような授業ではいけないと思います。  部活の弊害は強く、部活が学生の免罪符になってしまっている面があります。それはどこか労働にも似ています。部活という労働を行うことで、学内や家庭で社会的な承認を得る。本当は学生に社会的な承認など必要なく、現行の組織の批判者であることが学生のアイデンティティーなはずです。しかし、若いうちから、社会的な承認を得るように仕組まれている学校や組織ではそのような余裕が与えられていない。ある者は塾に、ある者は部活に、それぞれ教員や親が歓迎するような労働を通して自尊心を養ってきてしまった。だから、どこかで現在の社会に対しては批判的でありにくい面がある。本当は現在の社会を変えていくべき世代が、早いうちからその現行の社会に取り込まれているため批判的でありにくい。その傾向から脱するためには、自分の育ってきた社会をもう一度見直す必要がある。そして、それには部活やバイト、塾などの時間に追われることがないことが大切。ふとした、疑問や不満を時間をかけて醸成していく必要があるから。・・・ 現在の学生(自分のような大学生も含めて)は本質的な社会的人間であることを構造的に避けられているような気がします。学校を初めとした、社会組織の構成員は一部の特権的な大人だけとなり、学生はその方針の体現者となる。・・・大人と学生には寛容さが欠けてしまっていると思うのです。今、百年後の国を憂うような人間はごく少数になってしまっている気がします。高度情報化、高度資本主義が進み、多くの人がそれに取り込まれてしまっている。視野がすごく狭く、現在しか見ていない。こうありたいという国の姿や社会のあり方を想像しにくい。だから、しょうがないと言うのではなく、僕も自分自身に対する批判者でなくてはならないと思います」 勝見

 部活を「学生生徒の労働」と捉えた分析は面白くも悲しい。子どもを労働する小さな大人とみていた「子どもの発見」以前に我々を引き戻すからだ。子どもが存在自体として尊重されるのではなく、学歴を稼ぎ、大会入賞歴を稼ぐ者としてのみ承認されるのだ。
 会社員の労働環境や人間関係を部活と同一視する雰囲気は、若い業界に著しい。過労死からの救出を求める女性に「あまい」と放言する大学教員が出る背景でもある。
 「働かざる者喰うべからず」は教師好みの標語であり、掃除の強制もこれで完璧だと思っている。しかも労働であれば神聖なものであり、神聖ならば義務である。このとんちんかんな感覚は、思想の左右を問わない。権利であるという意識がこの国では希薄なわけである、違法な働かせ方も罰せられない。働かない人間は評価の埒外、認めて貰うための最低条件が労働としての部活である。過労は仕事熱心と賞賛される始末。無報酬で働けば更に讃えられる。

 労働としての部活なら、大会入賞は義務であり、教師は生徒に負けろ怠けろなどとも言えない。日本の教師と学生生徒は、奇妙な迷宮に自ら求めて嵌り込んでいる。その先には、賃金や労働条件に拘ることをよしとせず、過労死に自らを導く世界観が待ちかまえている。
 今勝見君が持つ批判的洞察力が、学生生徒である間は一見自由で自主的部活に圧迫凍結される、今は我慢やりたいことは卒業してからというわけである。やがてそのまま枯れて「社会人」となる。「社会人」をそう定義すると、我が社会の不可思議に合点がゆく。クラブ活動をClub Activities と訳すことがあるが、検索しても日本絡みのことしか出てこない。 

 「部活という労働を行うことで、学内や家庭で社会的な承認を得る。本当は学生に社会的な承認など必要なく、現行の組織の批判者であることが学生のアイデンティティーなはずです」
 学生は既に社会人なのだ、従って改めて承認を求められるいわれはない。承認の要求は、身分差強制であることを知らねばならぬ。既定の観念への全面降伏を迫っているのだ。「嫌なら、受験しなければよいのだ、他に学校はいくらでもある」という知能ある者とは思えない教員お得意の言葉がそれを示している。「社会」に都合に合わせて意のままに操作される対象としての、子ども・青年。操作される訓練として部活は使われている。だから面接では部活歴は、有利な得点源となる。
 「承認の要求」それは婚活・就活・終活・・・という造語の気持ち悪さも同時に説明する。

追記 パラリンピック競技が異様に注目を浴びている。人は誰であろうと存在自体が尊重されねばならぬのに、メダル稼ぎに縁のある障害者、活躍する女性、働き続ける老人だけに目を向け、それ以外の障害者・女性・老人は綺麗に忘れられる。閣僚が「早く死んで頂きたい」と公言する始末、世も末。

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