四谷二中 7 頑張らない自由

  四谷二中には日直について、おかしな決まりがあった。帰りのHRで、その日の日直を勤務評定するのである。挙手による評定が不可と出たら、翌日も日直をやらされる。ある日の日直二人が、不可となり翌日も不可となった。こんな事は滅多ににない、いや前代未聞の事だった。しかし二人は反省などしなかった。批判が相次ぐ。黒板を嫌々消している、日直なのに遅刻している、日誌を真面目につけていない・・・終いには何もしなくなった。帰りのHRは紛糾、しかし日直をさぼることへの共感も表明され始めたのだ。もう一回という罰が続くなら俺もやりたくない、日直なんているのか、遂に一週間不可が続いた。生徒による生徒の勤務評定に抗して、意地を張ったのか。平然としている。
「もうこんなこと止めようぜ、友達に成績をつけるの嫌だ」「もう一回という罰が続くなら俺もやりたくない」「日直なんているのか」誰かが言った。
「まじめに頑張った人が馬鹿をみることになるじゃないの」
「それはまじめとは別だよ」
 女子の多くが、馬鹿を見るから評定を続けるべきだと主張し、男たちはそれで頑張るなんて馬鹿げていると揉めた。遂にとどめの発言がでた。
「日直をやめよう」
「黒板は誰が消すの」
「使った人が消せばいい、先生が使ったら先生も自分で消す」
「自分のことは自分でが先生たちの口癖じゃないか」
「そうだ、昼のお茶も飲みたい者が自分で取りに行こう」
「日直日誌はどうするの」
「何のために日誌がいるんだ、遅刻や欠席した生徒の記録なんか要らない」遅刻の覧には、名前と共に教室に入った時間まで記録していた。
「あれは先生たちには、必要なことなんだろう。なら先生が自分でやればいい」
 ・・・
 日直の勤務評定はなくなり、日誌も曖昧になった。
 黒板は、徹底的にやる趣味人数人とそれに付き合う善人たちが現れて以前より綺麗になった。
 「頑張る」人間は自然に出てくる。蟻や蜂の世界でさえそうである。もし頑張る者が誰も出て来なければ、その仕事は必要ないのである。
 こうして、二中のある学級に、頑張らない自由がうまれたのである。アナーキーな香りある革命だった。

 全国民が学校で掃除当番や日直当番を12年間も続けて、日本人はどんな結構な習慣を身につけるのだろうか。
 大学紛争の最中、僕らはビル清掃のアルバイトを請け負ったことがある。紙やインクなど闘争資材の費用を調達するためである。「実践倫理○○」という組織のビルであった。自分たちの職場の清掃もカネで外注して、何の実践倫理かと思わずにいられなかった。
 文部官僚や教育委員たちは、子どもに清掃を押しつけて世界に胸を張る。であれば、彼らも、すすんで自分たちの職場は勿論、駅や通勤路の清掃に自主的に励んでいる、などということはない。そんな神経だから、ボランティアを一律に義務づけるという自らの奇っ怪さに気付きもしない。
  義務教育が施行されてしばらくの間、学校の清掃はこどもにやらせなかった。子どもの健康を慮ってのことであった。それが儒教的御託に彩られ、箒と雑巾で頑張ることが子どもの美徳になったのは、教育予算を戦費に回したからである。

追記 軍事費を削減して、教育予算を増額した国もあることは、知っておこう。Cubaである。Cuba憲法がそれを政府に命じているのである。

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