中学一年の一学期末、英語女教師が「初めての英語はどうでしたか、何かわからないことがありましたか」と聞いた。僕は4月、アルファベットも知らずに『JACK AND BETTY』を開いた。初めて触れた外国語は新鮮だった。 誰も質問しないので、先生が気の毒に思えて敢て質問した。
「I go homeをhouseを使えばI go back to my houseになります。houseの時はtoを付けなければいけないのに、homeの場合はtoはいらない。何故ですか」
なかなか気の利いた質問だと僕は思っていた。
しかし彼女は突然怒りを露わにした。僕の質問が、彼女の意図や期待から逸脱したからだろうか。
「教えたことを、覚えていればいいんです。余計なことを考える必要はない」と怒鳴った。質問をさせておいて怒る、僕はがっかりした。副詞と名詞を教えられない英語教師がいるものだろうか。僕は答えも準備していた。
「houseが物体に過ぎないのに対して、homeは住む人や生活を含んでいて自然に足が向かう場所。houseは何か動機がなければいつの間にか行くという感じではありません。だから方向を表すtoを付けねばならない」
この時僕は、副詞を知らなかった。色々考えた結果がこれだった。もし彼女にそのことを少し詳しく教える知性があれば、僕は英語から語学へ興味を広げていたはずである。断言してもいい。
二年後妹が同じ中学に入学し、英語担任は彼女であった。妹は帰宅するなり
「お兄ちゃん、英語の先生に何したの。出席を取っているときに「あなた三年の樋渡の妹?」って聞かれて「そうです」答えたら、いきなり怒られちゃったの」
おかげでその日から、僕の教室に一年生が何人もやってきて、こっそり僕を確認して、逃げるようにして戻って行ったのである。
妹のクラスで、件の女教師は口を極めて僕を罵った後
「私の夫も東大で英語を教えています」と胸を張ったという。こうして僕は、英語がすっかり嫌いになり『JACK AND BETTY』を開くのも、憂鬱であった。もし英語が中学になければ、少なくとも僕は英語嫌いにはならずに済んだ。僕の語学教師への偏見は永く続いた。
質問はわからないからするだけではない。わかりかけている途中の楽しい瞬間の呟きの場合もある。わからないということが認識出来て質問する場合もある。勿論教師の世界観や認識への反論としての解らないもある。学習したことを更に深めるためのわからないもある。何もかもわからない時もある。「わからない」は多様である。このことは、教師が自分の授業の出来具合を分析確認するとき、忘れてはならない。従って、教室に様々な理解の質や程度の生徒たちがいてこそ、生徒の「わからない」は多様になりうるのであって、自らの研究のこの上ない材料ともなる。
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