僕の大叔母は、よく頼まれて説教をした。頼んでくるのは、本人か家族であることが多かった。大叔母は、戦争で夫も子どもも無くして、姉である祖母の家で暮らしていた。そこに僕らも暮らした。
説教がある日、僕は昼前から親戚にやられた。小学校三年生の早春の事だけは少し覚えている。水仙や梅が咲いていた。うろうろして出かけ遅れた僕は、門を出たところで、小さくうな垂れた母親に連れられた若者とすれ違った。硬い表情で、2人とも紋付きの羽織を着ていた。
僕には、叱ってくれと頼む事そのものが不思議でならなかった。叔父たちに聞けば、大叔母は説教の名人で、遠くからわざわざ汽車でやってくる人もあると言っていた。「町誌」の編纂に加わったある叔父は、
「お前のうちは代々、水路や城壁の工事を設計監督する下級の侍じゃった。だから皆数学をやる、仕事上計算することがたくさんあるからだ。川の水量や速さ、石や土の量、人夫の数、工期、費用の見積もり。技師としての仕事の他に、避けて通れぬ役目がついてきた。それが仲裁だ。工事をする人夫たちは、気が荒い。喧嘩が絶えない。喧嘩が起きれば仕事は進まない。だからお前の先祖は、人夫たちが喧嘩しないよう気を遣わなければならなかった。揉め事があれは、事情をよく調べ、双方の言い分も聞き、仲裁した。焼酎は欠かせない道具でもあった。
そのうち、工事に関係の無い揉め事でも、仲裁を頼まれるようになったらしい。明治になつてからは、工事の機会も増え喧嘩も派手になって、仕事をする暇も無い位。あっちこっち仲裁をしていたようだ。中でもお前の爺さんは、仲直りさせるのが上手かった。大叔母さんもその血を引いてるんだ」と何度か話してくれた。
「お前の住んでいるあの家も、お前の爺さんが仲裁のために建てたんじゃなかろうか。座敷を開け放しても、周りの家に話し声は聞こえない、眺めはいい。いい景色を見ながら焼酎を飲めば心は穏やかになる。説教が終わる頃には、夕日が桜島の噴煙の中に沈むのが玄関に立てば見える。叱られに来た人も、帰る時には綺麗な景色で気持ちが和むように出来てる。
お礼は焼酎の瓶一本だけ。食べ物の支度は婆さんたちが朝早くからやるんだ、一銭の得にもならないのに。残した料理は、折りに詰めて焼酎を包んできた風呂敷に戻して渡すのさ」
「今日ちょっと早く帰ってごらん。叱られに来た親子がどんな顔して帰って行くか、見てごらん」そう言うのだった。
何度も中を覗いては、入っちゃいかんと制止されたが、やがて客が玄関に出て、親子の顔を見ることが出来た。
2人とも、昼前見たときとは別人のようだった。晴々と満面の笑みを浮かべながら、見えなくなるまで何度も何度も振り返ってお辞儀を繰り返すのだった。
鹿児島の方言で、「叱る」を「がる」という。
「なんごち(どうして)がられっせー(叱られて)嬉しかとやろかい(嬉しいんだろうか)」と大叔母に聞くと
「ここに来る決心をしたときには、大抵どっちとも大体の反省は出来ているものだよ。ただどうして啀み合うようになったか、順序立てて話を聞く、揉め事には言いたいことが双方に山ほどある、それを全部聞くのさ。言いたいことを言い終わると重く胸を塞いでいたものが消えて体中が軽くなる。その頃、焼酎を飲みながらお膳をつつく。そうすると、啀み合っていた時には出来なかった話も出来る。あれもやろう、これもやろうと相談もする。
だから、あたいゃ(わたしゃ)がりゃせんでんすんとじゃ(叱らないでも済むんだよ)」 そうか、だから暮れの大掃除や餅つきや薪割りには、説教された人たちが来て加勢してくれたのだろうと思う。
学校の生活指導としての説教=訓戒は、こうした「とき」を待ち「頃合い」をはかる事が無い。学校の都合に合わせて、最悪の時に説教してしまう。立ち直りを台無しにしたり、拗らせてしまったりするのだ。そもそも「説教」は、分掌として引き受けたり、職員会議の決定でやるものでは無い。最大の欠点は、説教と罰を一体化させてしまったことにある。
本人たちから頼まれるような関係を、「授業」や生活の中で自然に作り上げねばならない。それは面倒くさい回り道だが、結局は最も効果的なのだ。
「バカの考え休むに似たり」これは大叔母の口癖であった。
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