打倒すべき相手、食パン

 「・・・「なんだ、お前のその恰好は」 食パンはいきなりそういうと、私の背中を指さした。母が綿布を筒状に縫ったものを私は斜めに背負い、前に回したその両端を胸の前で結んでいたのである。つまりはリュックサックの代わりで、その中には母が工面してつくってくれた握り飯が入っていた。 戦時中にニュース映画で、中国の兵士がこれと同じ恰好をしているのを観た。それが珍妙だといって嗤ったものである。思うに、食パンの脳裏にも、その残像があったのではなかったか。・・・ しかし、食パンは、そうした事情を表だにせず、切って捨てるようにいった。「みっともない恰好するなよ。田舎者みたいな」 私は明らかに侮辱されたのである。傷つくより怒が先に立った。みっともないとは何事だ。こちらにとって、見た目にいいかわるいかは、問題ではない。おれはもっと切実なところで生きている、という思いがあったからである。・・・食パンにはっきり敵意を抱いた。当時流行の言葉でいうと、「打倒」すべき相手として。
 私は戦後民主主義のまっただ中で育った。民主化を目指すGHQ占領政策の一環として中等教育の現場に持ち込んだのが生徒会活動である。毎週水曜日の授業は午前中で打ち切りとなり、午後は「アセンブリー」の時間に当てられていた。講堂兼用の体育館に全校生徒が集まって生徒会総会を開くのである。 教師たちはオブザーバーというかたちで脇の方に顔を連らねたが、発言することは一切なく、会は生徒たちの自主運営に任されていた。おそらく、GHQからその旨お達しが出ていたのであろう。 初めのころ教師たちの中に、民主主義を理解している者が何人いたかとなると、ゼロに近かったのではなかったかと思う。 ・・・民主義教育の-環として、生徒会活動が導入されたものの、生徒たちは何をどうすればよいのか、皆目、見当がつかなかった。私は千歳の七期生で、転入したとき下級生としては敗戦の翌年に入学した八期生がいるだけであった。生徒の大半は、つい昨日まで軍国少年だったのであるいきなり民主主義といわれても、理解のつくはずがない。 生徒会が初めて盛り上がりを見せたのは、長髪禁止の解除を学校側に求めたときである。稚い要求ではあるが、しゃれっ気の出はじめる年頃の生徒たちには、これ以上ない打ってつけのテーマになった。 生徒委員会の申し入れを学校側はあっさり却下、生徒会は生徒会総会にこの議案を持ち込むが、反対論もけっこうあって、結論が出るには到らなかった。生徒たちもまた、戦時色を払拭できずにいたのである。   総会は三度、四度と開かれ、論議が白熟して夜遅くまで続けられることがあった。その間、千二百人余の全校生徒は、かたい体育館の床に腰を下ろしてやりとりに耳を傾け、その場を去る者は一人もいなかった。 私たちは敗戦の混乱の中で、自分で考え、自分で行動することを始めたのである。それは、そうせざるを得ない状況に置かれたからであった。 敗戦直後の学校には、教師も教科書も不在だったといえよう。教師の多くは腑抜けの状態にあった。それでは、生徒を教育するどころではない。新しい教科書が間に合わないので、古い教科書を用いた。ただし、GHQが不適切と判断した箇所は、墨で塗り潰したうえでのことである。 教科の担当教師は、授業を始めるより先に、問題とされる箇所を指示し、翌週までに生徒自身の手で塗り潰してくるよう申し渡すのが新学年初頭の仕事になった。これでは、教師はいない教科書はないも同然であろう。 生徒総会は最終的に長髪の是非を全員投票にかけた。・・・票決の結果は「是」となって、それまで首をタテに振らなかった学校側が、あっけなくこれを呑んだ。執行部からの申し入れの段階では、戦時中から続く師弟関係がなんとなく物を言って、生徒側が押し切られていたが、生徒総会の決定を突きつけられると、学校側の腰がとたんに引けてしまったのである。 学校側は、GHQににらまれるのを、極度に恐れていた。いま考えると、こっけいなほどである。その超権力がうしろに控えていたせいではあったが、生徒たちは容易に屈した教師たちの姿を見て、勝ち誇った。何分にもかつてなかったことである。 生徒会の次なる要求は、腕時計をするのを認めろ、というものであった。私はその必要性があるとは思 っていなかったので、総会で反対票を投じた。だいたい学校に腕時計をしてくる生徒というのはまれであったから、この要求は現実離れしていた。それでも学校側は生徒会の前に屈したのである。 このあたりまでほ手探り状態だった生徒会活が、ようやくそれらしくなったのは、校歌はこのままでいいのか、という問題提起をしたときからであった。 ・・・その三番が新しい時代にそぐわないとされた。
          赤く清き 誠ひとすじ/友垣を かたく結びて/身と心 きたえ修めむ/大君のしこの御楯と
 「しこ」とは漢字で「醜」と書く。強いこと、頑丈なことを意味する。私たちは小学校のころから、身を鴻毛の軽きにに置いて、醜の御楯となるよう叩き込まれてきた。要するに、自分の身は鳥の羽毛ほど軽いものだと考え、天皇の前に生命を投げ出せ、というのである。 とんでもない思想だが、そのとんでもないことを、日本という国はついこのあいだまで大真面目にやっていた。過去においてそういう国であったことを、戦争を知らない世代は胸に刻みつけておいてもらいたい。これは、その時代を生きた人間の、切なるねがいである。 敗戦後もしばらくのあいだ、「健児の歌」がそっくりそのまま校歌として歌われていたということは教師たちの歴史認識がいかにお粗末であったかを如実に物語っている。 生徒たちのあいだでは、いっそ校歌を変えてしまおう、という意見が強かった。学校側は収拾策として、校歌から三番を削除する、という案を出してくる。
        はろばろと日路の限りを/武蔵野に陽は直射して/千歳なる学びの庭に/丈夫ののぞみあかるし
 これが一番の詞である。出来のよしあしは別として、変えなければならない理由はない。三番の削除 で、この問題に決着はついた。学校側は辛うじて面目を保った恰好だが、長髪、腕時計の場合と違って、純然たる思想の対決において敗れたのだから、これによって権威は完全に失墜した。 一方、生徒は、自分たちの力で物事が動くことを、肌身で感じ取った。それは、民主化運動の実感であった。私たちはこのようにして、絵空事でない民主主義を学んだのである。
 衣食住どれ一つをとってみても窮乏のどん底にいたにもかかわらず、私たちの少年期は輝いていたと思う。 いまは、すべてが満たされているのに、青少年の心はどんより曇っている。たとえば、いわゆる引きこもり状態の若い人たちが、全国で六十万人もいるというではないか。彼らには、若い血潮をたぎらせる理想がない。それどころか、生きている実感さえ持てずにいる。物賛的にいくら豊かでも、心は貧しい。これは、親がどうの学校がどうのといった段階をはるかに超えている。 古今の歴史が示すように、栄えた文明はかならず衰亡に向かう。要は、いかにゆっくり下って行くかだが、経済的成功で光芒を放ったわが日本は、それもまたたく間に終わって、いまや急坂を転げ落ちるばかりである。モノだとかカネだとかに心を奪われている場合ではない。私たちに何が欠けているのか。真剣に考えるときではないのか」
             本田靖春 『我、拗ね者として生涯を閉ず』 講談社    2005.2
                                                         
  「敗戦の混乱の中で、自分で考え、自分で行動することを始めたのである。それは、そうせざるを得ない状況に置かれたからであった。 敗戦直後の学校には、教師も教科書も不在だったといえよう。教師の多くは腑抜けの状態にあった。それでは、生徒を教育するどころではない」
 この部分は、敗戦直後に教育を受けた少年たちのほとんど全てに共通している。少年たちが自分で考え始めるための条件は、状況の混乱と物質的窮乏そして教師の不在または自信喪失にありそうだ。


追記  本田靖春氏はノンフィクション作家。陸軍士官学校や海軍兵学校へ卒業生を送り込むことで名門校化を図った世田谷の旧制都立千歳中学(十二中)の敗戦直後を描いている。 多くの教師が自信を失う中、たった一人皇国史観を守ろうと力んでいた食パンも、生徒たちの「絵空事でない民主主義」によって権威を失った。

  今、「自分たちの力で物事が動くことを、肌身で感じ取」る経験を、少年・青年・若者はどこでするんだろうか。 どこかで「決まったこと」を守り、すすんで活き活きとこなす「活動」を民主主義と叩き込まれ、うさん臭さに気付く頃には手遅れ。その「活動」民主主義を壊す反知性主義的潮流に溜飲を下げて「物事が動く」ことに替えているのではないか。

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