「be punctual」というのは、時間を守ることを指している。それを遅刻しないという意味に限定することがあるが、困った使い方だと思う。「be punctual」は物事の始まりにも、終了にも適用されるのである。始まりにつて「be punctual」つまり遅刻しないに喧しければ、同時に終わりについても「be punctual」でなければならない。遅刻する生徒に目くじらを立てる担任が、終わりのHRを延々とやるのはよくあることだ。
僕は、終わりのHRはやらないのを原則としていた。だからクラスの生徒は、六時間目が終われば、他のクラスのHRを尻目にさっさと帰っていた。揃えてもらわなければ困る、やることがなくても残すべきだという担任が多い。たとえ生徒であれ、時間外に残して何かをさせるという神経が許せないのである。
生徒と教師は身分的関係ではない。それは、体罰やセクハラなどと共に、近代的学校制度にあってはならないのである。 生徒たちの話し合いが、互いの合意で行われる場合も、自由に残り話合い、自由に帰宅すべき筋合いである。
職員会議でも、終わりの時間や延長する場合の手続きが明文化された職場は多くない。これが町内会などの場合は、無原則であり、そのまま酒席に移行するのが商店主の楽しみにさえなっている。
こうした習慣が、残業に対する意識を締まりのないものにして、ブラックな企業体質を容認する心理的基礎を形成するのだと思う。終わりについての 「be punctual」こそ重視しなければならない。
修学旅行などでも、夜遅くまで学習や講演などが無神経に組み込まれ、生徒たちを疲れさせておいて、ありもしない成果を作文提出で演出する。枕でも投げたくなろうというものだ。
追記 「be punctual」でなくて困るモノの筆頭は、式の来賓挨拶と野球の実況中継である。
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