(六〇年安保)
六〇年、新安保条約を締結するときに例の国会闘争が起こって、岸内閣が倒れて池田内閣になった。あの安保闘争は非常に高まりましたから、生徒もすごく関心をもったんです。都高教は勤評闘争でスト指令は出したけど、ストはとてもできないだろぅというので執行部がスト中止指令を出した。都教組はやったけど。スト指令を引っ込めたのがよかったかどうかは別問題として、それを契機に都高校の組合運動はすごく停滞したんです。いままでやったことのない一日ストを四月二三日にやるんだというので、徹夜して職場会を開いた学校もあって、ぼくの学校でも徹夜して、校長と大喧嘩しながら職場会をやったわけ。やっと全員参加することになったところへスト中止指令がおりたでしょう。組合執行部は信頼できないと、執行部が不信任になったり、大騒ぎになった。都教組もたいへんだったんですよ。四・二三で突っ込んじゃって大弾圧をくらって、次つぎに逮補される、組合を脱退する人がふえたりして、組合運動が停滞したんですね。それが、六〇年安保で共闘組織ができあがってワーツと盛りあがってきた。放課後、みんなデモに行く。フランス・デモなんかやるとほんとうに闘っている感じがして、教師もよみがえってきた。
生徒のなかにも、われわれも国会に行こぅというのが出てきた。職員会議で討議して、高校生が行ったら危険だから、国会へみんなで行くのほやめさせよう、署名運動ぐらいにさせようということになったんだけど、なかなか言うことをきかない。教師は、大事なことは安保についてみんなで勉強することだ、その是非について討論してみろ、と言う。それをやるわけね。ホームルーム討議が連日続くわけですよ。六〇年安保のときにはそれができたというのは、だいたいこの時期までは高校性の自治活動がかなり健全な形で続いていた、高等学校自体が活気があったということですね。そういうことが、この時期までは言えるんじゃないかと思います。
樋渡 私は六四年に高校に入りましたが、H・Rに担任を入れなかった経験があります。まわりの同年代の教師にもそんな人が多いようです。原水禁、ベトナム戦争、日韓条約、能研テストなどを、社研が訴えて議論し、高校の旗を立ててデモに参加、試験のボイコットをしていました。ホームルームは?
三戸 ホームルームは、あのころは水曜日の六時間目にあったんです。そのあと職員会議。生徒のほうで判断して、かなりやっていましたね。安保の問題が起こったときは臨時に毎日やるとか。そうでなくても何か議題を提供する生徒が何人かいて、それが、きょうはこういうことをやると担任のところに言いにきて、教師が行く場合もあるし、先生はこないはうがいいと言う場合もあるし。
教師としてほ、そこに反省すべき点があるんですね。いまと違って生徒にかなり主体性があったものだから、放ったらかしにしておいた。それがだんだん崩れてくる徴侯があったわけでしょう。政策的には逆コースがどんどん進んでくるし、受験体制も徐々に強まりつつあった時期だから。
そういう過渡期にホームルームをいい方向に発展させ、生徒会を民主的に発展させていくためには、そこで教師が何か手を打たなければならない時期だったと思うんです。なかには立派にやった人もいるんだけど、状況が比較的よかったものだから、教師集団としてはそれほど情勢の変化を自覚していなかったんでしょう、〝なんとかやってるワ″ということで終わらせちゃったきらいはある。生徒は、何か議題をみつけてはやっていましたよ。
(自治の低迷)
樋渡 どんな議題だったですか。
三戸 それがだんだん幼稚になっていくんだ、そのころから。どうして掃除しねぇんだよ、というような。
その前は、掃除の問題についてホームルームでやるということは、あまりなかったね。たとえば、二七年にはメーデー事件が起きて、宮城前で大騒ぎになった。教師もずいぶん参加していましたから、学校へ帰って、ホームルームなどでその話をするわけですよ。そうすると生徒のなかから討論が起こるわけ。「どうしてアメリカのMPはあんなひどいことをやったんだ」とか「使っちゃいけないことになっているのに宮城前に突っ込んだやつが悪い」とか。
ところが六〇年ごろから、学校の中の小さなできごと、というと語弊があるけど、当時としてほコップのなかの嵐みたいなことがホームルームの話題になっていった。それでもやったんだから、いまから見れば立派なものだけど。
あの時期、みんながホームルーム討議をきちんとやって、ホームルームを充実させることが大事だったんじゃないかという気がする。一部熱心な先生はいたけど、教員側が後手後手に回っていたというきらいはありますね。
樋渡 高校生のホームルーム討議の内容がそういうふうに幼稚になったのは、なんででしょう。
三戸 小・中学校からずっと教科書も変わってきたし、世間の風潮が変わったから親の教育観も変わってきたし、社会の問題にあまり目を向けないような方向の教育がどんどん進んでいたし、〝余計なことを考えないで勉強して、現役で大学へ入りなさい〟という雰囲気が、大人の問にどんどんつくられてきていた、それも大きいと思いますね。それから、安保が通っちゃうと安保体制ができあがって、そろそろ高度成長の段階に入っていくでしょう。教員自身にもずいぶん変化が出てきたと思いますよ、あのころ。
樋渡 ぼくが高校生になったのは六〇年安保が終わって四年目、安保闘争をきっかけにつくられた高校生徒会の横の組織がまだ残っていましたし、能検テストでは、生徒会の呼びかけで一斉にホームルーム討論が行なわれて、中庭でボイコット集会をしたり、担任がどうしてもホームルームへ出ようとすると、出入口のところで学級委員と担任がもみ合って教師を追い帰すという場面がしょっちゅうありました。それでも、教師から圧力をかけられて生徒会の横のつながりから抜けていく学校が多かったように思います。ぼくは、一気に民主的組織がなくなっていく不安を感ました。
世の中では逆コースが始まっても、学校のなかでは自由と民主主義の精神が比較的貫かれていた。でも、五七年の勤評闘争から少しずつ学校の中の体制も変わって来たんじゃないかと。
(勤評と能力主義)
三戸 そうですね。勤評問題というのは日教組の戦後いちばん大きな闘いだったでしょう。あのときは、地域の親たちと手を握って教育闘争をやっていくという成果も、あちこちで出ましたね。郡高教だってストライキはしなかったにしても、四月二三日に一斉休暇闘争をやろうということを夜通し職場会で討議する、そのぐらいの高まりが当時はあったわけです。だけど、結局勤評は通っちゃう。
組合としてほ、それを骨抜きにする努力をずいぶんしたわけですよ。たとえは勤評昇給を事実上骨抜きにして、いまやっているような特別昇給という方向へもっていったりはしたけれども、全体として勤評が通ったあと、学校のなかの管理体制はどんどん強化されていきますね。校長にたいする管理職手当七%とか。一方政府は財界と一緒になって、能力主義・多様化路線をどんどん進めてくる。そして、教育現場に偏差値というやつが霹骨にもち込まれてくるわけです。高等学校のなかでも、とれぐらいの点をとっていれば○○大学に入れるというデータをどんどん整えていく。整えること自体悪くはないけれども、生徒がそれにふり回され、教員もそれにふり回される。よその学校に負けないように、夏休みに二〇日ぐらい補習をやっていい大学へ入れようとか。
それから、六〇年前後に能力別学級編成が行なわれて、とくに英語・数学については、できる子・中ぐらいの子・できない子と三段階ぐらいに分けてクラスをつくったんです。これは結果的によくなかったものだから、自然につぶれていく学校が多かったけど、能力別学級編成をやるという動きがかなりあったんです。
そういう受験体制のなかでも生徒自身の自治活動が、一部ではかなり続いていたところもあるけど、一般的に停滞してきましたね。教師のなかにはそれを心配して、なんとか生徒会活動をもう一べん活発にしよう、ホームルームも自主的にやれるようにしようと努力した人もいるんだけど、それはよほど教師に熱意があって、しかも指導力をもっていないとできないんですね。勉強にたいする主体的などりくみもどんどん失せてきて、受験に役立つと言われたことだけをやるようになるし、大学の志望についても現在に近い状況がそろそろ出てきたわけ。自分が希望する大学というよりも、何点とればどこに入れるという形が。
体育祭などにも危機的状況が出てきたな。体育祭のとき、女の子がダンスをやるでしょう。七、八人の輪に分かれてやるんだけど、あちこち歯抜けになって四、五人ぐらいしかいないんだ。「どうしたんだ?」「駿台予備校に行ってます」(笑い)
本人たちがやろうという意欲をもっていないから全然揃ってもいないし、見ていてもきれいじゃない。おもしろくないわけよ。文化祭のときは出席をとったら帰っちゃう。文化部自体が不活発になってきたから、文化祭の展示なんて字を書くだけで、見る人もあまりなくなる、そういう傾向が出てきていたわけ。
つづく
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