「『・・・わしは、とうとう考え出し申した。五十年も昔、わしがまだ若い者の時分、村の爺さん達が聞かして呉れ申した言葉が、仏さまのお告げのように、わしの耳に聞えて来申したのじゃ。お前さんも気づいていなさるじゃろうが、此村の地所でござい申すなあ、今では、一人一人境をうって、わがもののように威張って居り申すが、その始めは、一体、誰の物で、ござんしたろうか、みんなは、親ゆずりの物とばかり思うてい申そうが、そうじゃござらぬ。
・・・ 『土地と言えば、百姓の命で、御ざり申す、その命が、人手から人手に渡って行き申す。さぞ、其処を新地した人、血の汗たらして、立派な畑にした人達あ、くやしく思うていることで御座んそう。なるほど、仏になれば、田畑を欲しいとは思い申すめえ、でも畑は、土ではござんさぬ、人の血と膏の塊でござり申す』
・・・ 『でな、お前さん。あの盗人晩だって、人の物を盗めと云うのではない、わし達百姓は、九月の十七日の晩だけ、みんな地所を元の地主、この土地を開き、立派にしてくれた沢山な人様の魂にお返しし申すのでござり申す。すると、其の仏さま達は、まだ何にも持たぬ無邪気な子供達にくれてやるんでござり申す。これでも子供達を助けて貰えますめえか・・・』
小山勝清はその転末を「盗人記」という一章に書き、「佐七老人の心の底には、物を私有することの罪と悲しみが、かすかにも、かくされていたのである。そして、年に一回だけは、総ての物の私有を否定する観念が、自から現れ出でたのである。
従って又、盗人晩と云う不穏な夜も、そうした良心のあらわれであることも判明する」と言い、「佐七老人は死んだ。盗人晩も今は無くなった。同時に、斯うした伝統の観念も滅びた。しかし、願くは今の人達よ、物の所有の正義と共に、独専、専有の悲しみを知れ」と結んでいる。
かつては盗人晩の一夜、私有以前の古い時間が、子供たちのなかに流れていたのだ。近代化はその水沢を細らせ、遂には滑れさせる過程であったが、ほんとうに滴れ果てたかどうか。あるいは深い見えない水脈が、子供たちの奥底に流れているかも知れない。ひとりひとりの子供のなかに流れているというよりも、子供たちという、子供自身も気づかない大きな集団のなかに」 高田宏『子供誌』新潮社 p29
一体盗人はどっちなのか。佐七老人は江戸時代以前の記憶を体に持っていた。明治の法体系に容易く言いくるめられたりはしない、賢明である。
「法教育」はこれを正しく扱えない。現在の契約を絶対視する英米法の概念を世界共通の概念と見なせば、盗人晩が犯罪。しかしそれは、タリバンを爆撃する米英を正当化することにもなる。タリバンとは生徒或いは弟子という意味。その生徒が学ぶお堂は村の集会所でもありイスラム教徒の心の拠り所でもある。そこをタリバンの根拠地として爆撃する。近代的校舎と教材を援助してお堂を破壊する。その合理化に使われたのが、ノーベル平和賞少女マララである。ノーベル平和賞はどこまでもいかがわしい。
子どもや少年の、契約や消費の概念以前の古く永い記憶に繋がる感性を、中里介山やタゴールは捉えている。人々が排他的私有や侵略に囚われる以前の感性を。
学校の時間、分けても日本のクラブ活動が持つ時間は、少年の時間感覚を衰弱させ、大人の商品的時間と同一化させる役割を持っている。日本の若者が歴史意識と経済学的感覚を持てないわけである。
ホセ・マルティやボリバルの弟子であることをカストロに自認させた精神的基礎としての歴史意識を、日本の青年は確立できない。自立した歴史意識無しに社会構造の分析は出来ない。ファノン ルムンバ ムヒカ ・・・彼らを繋ぐのは、生活が商品化される遙か以前からの歴史的記憶である。
盗人晩は怪しからん風習どころか、見事な歴史教育である。例えばかつてのベルギー国王レオポルド二世が、コンゴを国王の個人的私有地とし、資源とコンゴ人を欲しいままに
収奪・殺害(1000万人とも3000万人とも言われている)した事実とともに忘れてはならない。世代を超え大陸を超えた歴史教育上の遺産としなければならない。
追記 民俗学者の宮本常一が、子どもの頃の記憶を語っている。彼は1907年生まれである。
「・・・私の郷里には、一年に三回ぐらい畑のものを漁民がとっていい日があった。一月の六日の晩は、どこの畑へ行って大根を抜こうが里芋をとろうがよかったんです。それが七草雑炊の材料になる。お盆の13日にも畑へ行って何をとってもよかった。とられちゃ困るものは、そこの家の人がみんな先にとっとくんです(笑い)。けれども、そういういじましいことをする人は、ほとんどなかった。 それから、もう一回は月見の晩です。これはいまでも多少各地に習俗的に残っておりますが、畑のものをとっていいんです」 1977年4.29『朝日ジャーナル』
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