今、30年余りが過ぎ「戦後教育七十年余」が企画されねばならない時期を迎えている。 異なる世代の都立高校教師四人で議論したが、ここでは石神井高校の三戸先生の発言を抽出して紹介する。 話し手 三戸孝 / 聞き手 樋渡直哉
(教師も生徒も目的をもっていた)
ぼくは将校になるつもりで、終戦の年に陸軍士官学校へ入ったんです。八月に戦争が終わって、一〇月に、士官学校や兵学校へ行っていた連中は大学の編入試験を受けてもいいという通達が出た。戦争犯罪人になりかけていた連中にとっては、すごくありがたい通達だった。一〇月に大学に入って、卒業したのが朝鮮戦争の翌年の昭和二六年です。旧制大学というのは予科三年・学部三年の六年間で、予科の三年間は旧制高等学校と同じような生活なんです。語学と哲学と文学だけやっていればいい。あとは何もやらないで、高下駄をはいてマントを着て歌をうたってりやいい。食うものはほとんどない。だから空腹なんだけど、ものすごい自由があるし、希望があった。大学教授と学生が対立して争うなんていうことはおよそ考えられなかった。教授もみんな、平和になったんだ、これからは民主主義なんだ、昔みたいに軍隊に威張られることはないんだ、どんな勉強をしてもいいんだ、何を言ってもいいんだ、右から左まで何をやったってかまわないんだという雰囲気のなかで、毎日が希望に満ちていた。ほんとぅに自由を満喫した時代が、この六年間だった。
(平和と民主主義を言わないと教師になれなかった)
二六年にぼくは都立高校の教員になったんだけど、採用試験がいまと全然達う。八潮高校で面接があった、指導主事がたった一人で面接するわけです。「どういう本をお読みになりましたか」と、作家・哲学者の名前をズラッと並べる。「カントは読みましたか」と、向こうが切り出してくる。あのころは、そういう本はだいたい読んでいた。そのあと、「なんで教師になろうと思ったんですか」という質問があった。「二度と戦争は起こしたくないから、平和ということを若い人たちに教えたいんだ」と、これが当時、優等生の答なんです。平和と民主主義ということを言わなかったら教員にしてもらえない。作文が「革新と伝統」だったかな、原稿用紙に二枚ぐらい書く。そこでも平和とか民主主義といぅことが貫かれないとダメなわけ。とくにぼくは士官学校に行っていたから、まだ軍国主義が抜けてないんじゃないかと、指導主事はちょっと警戒したらしい。
そういう状況のなか、ぼくは教員になった。その年、講和条約(安保条約)が結ばれたわけです。生徒はすごく活気があったね。生徒会長の選挙には四人も五人も立候補して、各部屋を演説して回るわけですよ。職烈な争いになる。演説の内容もなかなか高級で、教員になったばかりのぼくなんかよりはるかに気がきいているし、字もうまいし、優秀な生徒がたくさんいた。そういう生徒会活動をやったやつが、国立大学一期校などにどんどん入って行った。クラブ活動も、運動部も文化部も非常に活発だった。
(松川事件もゾラも、安保も、授業も)
この時期は文化部がすごく活発だったですね。社会部、文芸部、音楽部も相当水準が高かった。文化祭にかぎらず、音楽部主催でオペラなんかどんどんやるんだから。文化部主催で講演会をやるというと、檀一雄さんとか、松川事件に関連して広津和郎さんとか、かなり有名な作家や哲学者を生徒が呼んでくる。檀一雄さんは家が近かったし、親戚の子もきていたし、よくきてくれましたよ。読書会もやっていて、これは教師も自由に参加できるし、ぼくは若かったからあちこち呼ばれたけど、ゾラとかツルゲーネフとか、ヨーロッパの翻訳ものが多かったわ。ロマン主義のもあったけど、自然主義文学を当時の生徒はよくやりました。ゾラの『居酒屋』 とか 『ナナ』 とか、ああいう類いのものを。みんなすごく読んでくるから、こっちも読んでいさないと教師のほうがやられちゃうんだ。
文化祭の前は二、三日徹夜して展示をやる。ぼくが顧問をしていた社会部では、当時の生徒は政治意識も発達してきたから、安保条約の内容はけしからん、なぜ単独講和をしたんだと、それをどんどん発表するわけですね。
その背景には、教科内容が伴っていたわけ。当時社会科では一年で 「一般社会」というのがあって、全員が週五時間やるんです。憲法、民主主義の制度、資本主義と社会主義の問題、農村問題、労働問題……。
いまと違うのは、労働問題などにすごくページ数をさいているものだから、大学時代の知識だけではやれないんだ。相当勉強しないと全部こなせない。いまの倫社部分はほとんどなかったですね。ほとんど政治・経済だった。それを五時間、全員がやる。
二年生になると世界史・日本史・地理に入っていく。とりわけ世界史が充実してきたかな。生徒も、近・現代史にいちばん興味をもちましたね。フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる。こっちがへたなことを言うと、生徒が食ってかかるんですよ。たとえば 「ここで平等と言っているのは機会均等なんだ、経済的にも何も全部平等ということじゃないんだ」というようなことを言うと、少し社会主義の勉強をしたような生徒がパッと立って「おかしいじゃないか、そんな平等があるか、平等というのは経済的にも平等じゃなきゃだめなんだ」と。それにたいして教員も反論する。
だから、授業のなかで自然に教師と生徒の討論になるということもずいぶんありましたよ。
「君が代」・日の丸問題でも、「君が代」を歌うか歌わないかということが生徒のなかで論争になるわけね。
ぼくは大泉高校で教えていたんですが、当時の都立高校には、一般的にそういう雰囲気があった。ぼくが大学のときに味わってきた自由な雰囲気と似たものが、都立高校にあった。しかも都立高校の水準もかなり高かった。
つづく
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