ある都立高校教師の戦後教育四十年 2 逆コースと抵抗

                                 承前
 ところが、政治のほうはもう逆コースに入っているわけですよ。二七年にはメーデー事件が起きてすごい弾圧がきているし、二八年には池田・ロバートソソ会談が行なわれて、愛国心を植えつけなきゃいかんと小うことを言い出している。一九五四年(昭和4二九年) には旭丘中学事件が起こっていますね。旭丘中学の教師が教育方針として掲げたことは、よく見ると立派なことばかりなんです。平和と民主主義の問題がずっと貫かれている。それにたいして、旭丘中学の先生がソ連を賛美したとか 『アカハタ』を材料にしたとか、いろいろ細かいことを突っついてほ弾圧を加えてきたわけです。
 五六年には教育委員の任命制が施行されるし、教科書調査官が設置されて教科書の検定が強化される。五七、五八年(昭和三二、三三年) ごろが勤評闘争で、ぼくはそのころ、二八歳で都高教の執行委員になって、職場を出て組合活動をやったわけだけど。
一連の逆コースのなかでも、まだ高等学校の内部は崩れていなかったですね。教員はもう動揺していました。というのは、年配の教員は戦前の教育をずっとやってきて、天皇陛下のために立派に死ねる人間になりなさいと教えてきたわけでしょう。それが急転直下戦争に負けて、GHQが出てきて、マッカーサーの指令で、民主主義と平和の教育をしなければいけない、日本史の教科書は使ってはいけないとなってきた。そういうなかで、親分が替わったんだ、今度はアメリカに逆らっちゃいけないんだ、というふうな人たちも少なくなかったから。校長も教育長もアメリカにたいして恐れをなしているわけですから。

                                            (逆コースと抵抗)
 政治が逆コースになれば当然役所にも校長にもその指示が流れてきますから、生徒の運動が社会主義的な方向に走った場合は早目に抑えなければいけないとか、もうそろそろ「君が代」を歌わせ、日の丸を揚げさせたほうが教育長や文部省の覚えがいいという動きが、校長や、それにおべっかを使う教員の間からは当然出てきた。だから当然圧力はかかってきた。
 だけど、ばくらみたいに戦後教員になった連中は、二度と昔のような軍国主義にしちゃいけない、言論の自由は守らなければいけないということは痛切に感じているし、大学でも徹底的に叩き込まれているから、そういう若手の教師が抵抗するわけです。だから職員会議が猛烈長引くわけ。毎週のように夜一〇時ぐらいまで、教育の根本的な問題を論争する。たとえば体育祭のときに日の丸を揚げるか、「君が代」を歌わせるかで大論争になって、社会科の教師なんか興奮しちゃって、「そんなにわからないなら、フランス革命の精神を教えてやる」なんて絶叫するのも出てくる(笑い)。
 夜一〇時ぐらいまで論争したあと飲んで、どこかへ泊まって、翌日そこから学校へ行くということもしょっちゅうあったわけです。その論争が楽しくてしょうがないという教師もいた。
 生徒のほうも、そういう圧力がかかってきたときに結構しっかりしているんですよ。たとえば、アメリカの占領軍が日本人を車ではね飛ばして、救おうとしない、その写真を社会部の生徒が貼るでしょう。そうすると、「その写真はちょっと偏っている、はずせ」とやられる。教師は間に入って、貼らせてやりたいけど校長は絶対にはがせと言うし、PTAの役員からもうるさいことを言ってきている、どうしようかと動揺するんですね。生徒は、わかりましたと言ってその写真を裏返しにて、裏に校長から貼るなと言われました」と書いて貼っておくわけ。お客さんはみんな、どうして押さえられたんだろうと、おもしろがって全部見ていく(笑い)。効果満点なわけです。そういう気のきいた生徒が多かったですね。自覚していたんでしょう。
 「君が代」についても、職員の半分ぐらいは反対しているんだけど、わずか一票か二票差で、体育祭で「君が代」を歌おうという結論が出たんです。こういう点ではいまよりもかえってやられちゃう場合があるのね。いまは昔と比べると反動化しているとはいえ、行事で 「君が代」を歌うかどうか、どこの学校でもそう簡単には職員会議で決まらないでしょう。ところが当時は、さっき言ったように半分ぐらいの先生は平和とか民主主義についてはんとうの自覚はなくて、〝戦争が終わって、気がついたら主が変わっていた″というのだから、校長が歌わせろと言えば、あ、そうですか、となっちゃう。半分ぐらいの教員がそれに抵抗したんだけど、一票差ぐらいで「君が代」を歌うことになっちゃった。
 ところが生徒は毎夜六時ぐらいまで生徒総会をやって、賛成派・反対派、次つぎと壇に立って討論する。こちらも途中で校長が中に入ったりして、わずかの差で歌うことが決まるわけ。いざ体育祭で音楽の先生がオルガンで「君が代」の伴奏を始めると、三分の二ぐらいの生徒が黙って立ってきるんです。沈黙して抵抗している。歌わないんですよ。校長も唖然として、翌年から歌わせないというふうになっていく。この時代には、生徒のなかにそういう自主性・主体性がかなり生きてましたね。その動きが、六〇年安保までは続いたんじゃないかと思ぅんです。学校によって相当違いがあるかもしれないけど。
                                    つづく

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